第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 2 キリスト教への接近を妨げる諸見解 (3)

Essay 2 信仰の健全 ―真理と権利

原理主義と結びくことの懸念から宗教を遠ざける人もある。原理主義はなぜ否定されるべきなのだろうか。不確実にすぎない教義に基づく行為だからなのか。確かに、根拠に基づく知識と、教義に基づく信仰は区別されなければならない。

しかし原理主義が否定されるべきであるのは、単に、それが他者の権利を侵害するものだからである。つまり犯罪と同じだからなのであるが、そこに思想や信条による理由づけが伴っているのが原理主義である。

原理主義は、信奉する信念を、民主主義国家で通常認められているような個人の権利を侵害してでも実行してよい、あるいはそうすることが正しいとする考え方である。

「エホバの証人」の信者による自分の子供への輸血拒否、オウム真理教の「秘密金剛乗」による「ポア」、宗教原理主義者による自爆テロといった過激なものだけではなく、信仰者にときにみられる家族を敵視する態度や、街中での宗教宣伝での通行人への配慮のないふるまいなど、法的な権利侵害にまでは至らない状況においてもそれは認められる。

そこで現代人の多くは、特定の宗教的立場から他者の信仰や無信仰を否定することが押し付けがましいことだと感じている。彼らは、人が特定の信仰を持つことに対しては何ら異議を持たない。それは個人の自由だと考える。

しかしもしある人が自身の宗教のみを正しいと考えているなら、彼が実際にそのようなことを他者に対して主張していなかったとしても、そういった信仰の持ち方自体が狭量でひとりよがりな態度だと感じるのである。「正しさというものは人それぞれだ、そんなことも分からずにいるのか」というのが、宗教に関わる者に対する彼らの苛立ちである。

しかしながら思想や信条をこのように捉えている人は真理と権利の区別を知らないのである。確かにキリスト教は他者の真理を脅かそうとするが思想信条とはそのようなものでなければならないと私は思う、他者の権利を脅かすものではない。

もしキリスト教の真理が、すなわちキリスト教信仰が他者の権利を軽んじて伝えられることがあるなら歴史的に省みればそれは例外的なことではなかったが、教会もまた真理と権利の区別を知らずに来たのである。

伝道は宗教的信念を他者に働きかける行為だが、このとき伝道者は科学的知識に基づいて相手の同意なしにも行動しうる医者のように振る舞うことは許されていない。

宣教活動は何らかの形で相手の同意を必要とするものである。それは予め相手からの個人的な信頼を得ることであったり、教会機関による活動であることや牧師などの職務を示すことで社会的意味での承認を得ることであったりする。

いずれにしても、我々が人の生死以上に重要なことと信ずる事柄を伝えるのに、これに無理解であるような人たちの承諾をいちいち優先させなければならないとするのは、それが知識ではなく信仰であるから、すなわちそこで伝えられたことは本人の自主的な意志によって受容されなければならず、強制によっては伝えられない性質のものと考えているからである。

しかし同時に、宗教活動は他者の権利を侵すものであってはならないという、真理と権利の関係についての基本的な理解を持つからでもある。我々が信じる宗教的真理は他者の権利の下に置かれて伝達される。

科学的な知識に基づいて医療を行う医者においても、実際の治療場面では患者の同意が必要であると考えるならば、他者の権利の下に置かれるのは宗教的真理だけではなく科学的真理も同様である。

たとえ、ある教義の影響から輸血を拒んでいる人であっても、また、病気を「霊の仕業」と考えて注射を拒む未開地の人であっても、強制的行為からは守られるべきである。その際に行われなければならないのは説得であり強要ではない。この場合もやはり個人の権利が真理の上に置かれると理解すべきなのである。

つまり思想信条が原理主義から守られるための【原則の第一】は、そこに掲げられた真理が宗教的なものであれ科学的なものであれ【真理より権利が優先される】ということである。そしてこの原則が守られている限り、どのような宗教も原理主義に至ることはない。

ただし対立の構図はこれだけではない。

「エホバの証人」の輸血裁判では、医者が医療行為を実行しようとした相手は自分で判断を下すのが困難な幼少者であった。信者である親には輸血を受けない自由があるが、その権利は子供にまで及ぶのかが争われたのである。あるいは伝染病対策での隔離政策のように、強制してでもそれを実行しなければ害が広がるといった場合もある。

これらの例については個人の権利よりも科学的真理が勝る、すなわち権利よりも真理が優先されると理解すべきなのだろうか。

仮にそう考えたとしても、少なくともそれは、一般に確実性が認められている科学的真理に基づく行為の場合であり、他者の目に不確実である宗教的真理については、それを個人の権利の上に置いてよいという帰結は導かれないだろう。

したがって「真理が権利に勝る」と考えることのできるこの事例においても、宗教の原理主義への道は開かれていない。

しかしこの事態においては、真理と権利の対立ではなく、権利と権利の対立が起きていると捉えるのが正確である。

エホバの証人の例では、幼少者の生存権が親の「信仰が阻害されない権利」によって脅かされているのであり、伝染病においては大衆の生存権が病者の「自由を束縛されない権利」によって脅かされているのである。

そしてこのような場合は法に裁きを委ねるのが通常のことであるから【権利と権利の争いは法が裁く】ということが【原則の第二】となる。

そこで、信仰や思想が何らかの対立を引き起こすとき、それが真理と権利の対立なのか、権利と権利の対立なのかを見ることが重要である。そして、真理と権利の対立においては権利を上に、権利と権利の対立においては法を上に置くということである。

この原則が保持されている限りどのような宗教も原理主義から明確に区別されるだろう。

すなわち、原理主義とは、信奉する真理を他者の権利の上に置くことを肯定する考え方であり、これに対し、健全な信仰においては自らの真理は常に他者の権利の下に置かれるのである。

ただし先の第二原則については、「民主的な法治国家の下に宗教が擁護されている状況においては」という前置きが必要であることは言うまでもない。

「信教の自由」が保証されない国では、宗教と国家の間に権利と権利の対立が生じるが、その場合、宗教は、当然、そのような国の法制度に訴えることに期待を持てないだろうからである。この場合に限り、宗教は国家と並ぶ権威として振る舞うことが正当化されるだろう。

論を尽くしていないが、分かりきった話になってきたのでこれまでとしたいが、原理主義の否定に「権利」概念を持ち出すことに抵抗を感じる宗教者のために次のことを指摘しておきたい。

そう考える人は、原理主義の否定は自身が信奉する宗教の教えの中に含まれており「まっとうな宗教であれば原理主義にはならない」と主張したいはずである。まったくその通りだが、この論の立て方は、原理主義宗教とそうではない宗教、つまり宗教同士の争いとなり「何が真の教えか」という真理に関する果てのない議論になりそうである。

そもそも「人権」は西欧の近代国家成立時にロックやルソーといったキリスト教思想家が提示した概念である。憲法は人間が作り、人間は自分で立てた法に服する。これと同じく、キリスト教は自らから抽出された「人権」概念に自ら服するのである。このことが真理は権利に服すべきとここで述べることの根拠である。

リカルド・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』の最後で次のように述べているという。

「むしろ、連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲の中に包含されるものと考えてゆく能力である。」

公共においては、宗教的真理や人間本質の追究などより、人々が残虐さから免れられることの方がはるかに大切だということである。社会に必要であるのは「至高の真理」や「まことの愛」ではなく、ただ最低限の権利と自由の保障なのである。

もちろんキリスト教としてはそれをもって十分とすることはできないが、社会においては、人間の基本的な権利はあらゆる真理主張から守られなければならないこと、すなわち真理より権利が上でなければならないことが主張されている点には賛同すべきである。