第一部 信仰論 | 星加弘文 |
不確かなことを信じるものであるからという理由で宗教を遠ざける人は多いが、もう少し強い意味で宗教を拒否する人々がいる。それは宗教がある種の「狂気」や「原理主義」と結びつきがちであることに対する拒否である。
宗教をそのように感じている人は、信仰熱心であることが反社会的な好ましくない傾向を生じさせるのであり、信仰というのは社会規範に反しない程度に適度に取り入れている状態が健全で、常識を失わず、教祖には申し訳ないがある程度いい加減な、あるいは不真面目とみえるほどの世俗性があるくらいでちょうどよいという考えを持つかもしれない。
確かに、教会内においても社会的、共同体的観点からみて扱い難い人が「信仰熱心な人」であることは珍しくない。しかしそうであったとしても上の信仰理解が適切というわけではない。
宗教を健全ではないと感じる人のために、健全な信仰についていくつかのことを考察してみたい。
まず、知識と信仰の区別について。
ギリシャ哲学に「無知の知」という思想があるが、これは自分の無知を自覚していること、いいかえると、自分が知っていることと知らないことを区別できることをいうものである。この原則により、プラトンが描くソクラテスの弁論は健全な印象を与えるのであるが、信仰についても同じように考えてみるとどうだろうか。
知っていることと信じていることをいつでもはっきりと区別できるなら、そのような信仰はとりあえず健全とみることができるだろう。何が信じられていようと、それが信じられたものにすぎないという自覚があるなら、それは狂信ではないからである。
ある人が神の存在について「信じている」と言い、歴史上のイエスについては「不確実な知識であるかもしれないが知っている」と言うとき、彼の信仰は健全とみられる。
しかし「信じる」と「知る」が逆にされて、「私は神を知っている」と言い、「イエスの実在を私は固く信じている」と言うとき、彼の信仰には何か不穏なものが入り込んでいる印象がもたれる。
もしこれらの言明に違和感がなく、前の言明と何の違いも感じられないという人があるなら、その人は知ることと信じることの区別をすでに失っている可能性があると私は思う。
我々にとって神とイエスは共に不確かな存在だが、その不確かさの性質は異なっている。
常識的に考えて、神は認識能力を超えた存在であるのに対し、かつて弟子たちと共にあったイエスは認識可能な存在であり、現在の我々にとって彼が不確かな存在であるのは、イエスに限らず過去の歴史上の人物すべてがそうであるところの不確かさであるにすぎない。
したがってこの限り、神とイエスに対する述べ方は、前者については「信じる」、後者については「知る」とするのが適切なのである。
そこで、信仰全般にわたってこの区別を維持できるならその信じ方はひじょうにすっきりとしたものになり、信仰が不健全とみられる状況になることはないだろう。
しかし実際にはこの区別はうまくいかない。二つの事情がそれに関わっていると考えられる。
第一に、聖書には天上のものとも地上のものともつかないようなできごとが記されており、これに対する判断が定まらないということがある。
イエスによるラザロのよみがえりのような治癒奇跡や、また、嵐を静めるなどの自然奇跡と呼ばれるできごとは、それがいかに驚くべきことであろうと、当時の人々が体験したこととして記されている以上、地上のできごととして理解されるべきものといえる。
しかし、イエス降誕時の天使の合唱、イエス洗礼時の聖霊の声、復活したイエスの顕現と昇天、パウロに現れたイエスの幻などについてはどうだろうか。
これらのあるものは、そこにいたすべての人が目撃したというのではない性質を帯びており、聖書にも実際にそう書かれているものがある。これらを整理して、そのどこかに知ることと信じることの境界線を引くことは容易ではないだろう。
第二に、上の結果、知ることと信じることの境界は、我々の間で異なって理解されていくということが起こる。そして容易に予想されるように、いずれの信仰者あるいは教派による境界設定が正しいのかを決定することは困難である。
ある人において信じる対象であるものが、別の人においては体験として考えられている場合、いずれを適切とするかという基準は誰も持っていないのである。
私は以前、保守主義的な教会の中で「カリスマ派」と呼ばれているある教派の牧師に次のように訊ねたことがある。
「あなたが教えている『聖霊のバプテスマ』というのは、仮にそれを私が受けたとして、私はそれが自分に起きたことを信じる、そういうものとして教えているのか、それとも『聖霊のバプテスマ』は、自分の身にそれが起こったことがはっきりとわかる体験的なできごととして教えているのか。」
外国人の彼は質問の意味を理解すると躊躇なく次のように答えた。
「『聖霊のバプテスマ』は、それを受けたと信じるものなのではなく、それが起こったことが実際に分かる体験です。」
私はその教会で教えられているようには「聖霊のバプテスマ」を求めることはできなかったが、しかしその牧師の信仰は「健全」だと思った。そこでは何が信仰で何が体験かという基準が私とは異なっているが、しかし信仰と体験の区別が失われていないからである。
しかしその一方で、私はその教会の中で、信徒が「聖霊のバプテスマ」を求めて呻吟し、何らかの体験をそのようなものとして信じようとしている姿にも接していた。
それについて私は「不健全」な印象を抱いた。というのも、そこでは本来明確な体験であるはずのことが、信仰によって賄(まかな)われようとしていたからである。
手短な考察だが、上のことから信仰の「健全性」について取り出せる原則がある。第一に、知ることと信じることの区別の客観的な基準を設定することは困難であることを認めること、第二に、そうであったとしても知ることと信じることの区別は、各々の信仰者においては保たれていなければならないということである。
何が信じることで、何が体験しえることかについては他の人と理解が異なってもよいし、また、その理解が年月のうちに自分の中で変化していくということがあってもよい。しかし、自分がその時点で理解するその区別において、一方を他方で補おうとしてはならないということである。
「聖霊のバプテスマ」が体験であると教えられている場合に、それが自分の身に実現したことを信じようとするのは危険なことである。あるいは、神が善であるという信仰から、自分の身に起こるすべてを良きこととし、その都度その良い理由を探すことも不適切な態度といえる。
これらにおいては信仰と体験の整合性を求めて、体験であるべき事柄を信じることで納得しようとしたり、信じていることを体験から保証しようとしたりしているが、それは信仰というよりは心理的な操作であり心の健全さを損ないかねないだろう。
また、イエスが歴史上に実在した人物であるということはキリスト教の大前提だが、その場合、イエスの史的不確かさは何らかの「知識」によって埋められなければならないのであって、信仰告白などの「信仰」においてそれを補うことはできないと理解されなければならない。Chapter 1 - Essay 1での、『使徒信条』に関する私の体験はこれにまつわる違和感だったのである。
しかしこういった事柄が「見ずに信じる者は幸いである」(ヨハネ20.29)というイエスの言葉についての誤解によって助長されている場合もある。教会で語られることの多いこの教えは、何の証拠もない中でもとにかく信じることが大事ということを教えるものなのではない。
ここではこの言葉が語られた文脈が重要である。
イエスにそう言われた弟子トマスは、その時点で、すでに他の弟子たちからイエスの復活についての証言を聞いていたのであり、イエスはトマスが彼らのその証言を信じなかったことに対してこれを告げたのである。
したがって、イエスの言葉の第一義は、見ていなくても聞いているならそれを信じなさいということである。
「見ることも聞くこともなく信じるのが尊い」と教えられているわけではない。「聞くことがなくてはどうして信じることができようか」(ローマ10.14)とパウロも述べるところである。