第一部 信仰論 | 星加弘文 |
メートル原器が一つしかないために不便があり、そのコピーが各国に配られた。
そうこうしているうちにメートル原器が失われてしまった。
人々は集まって「1メートル」を再定義することにした。
各国にあるメートル原器のコピーが集められて相互に比較されたが、当然ながら各々の棒の長さにはごく微小なばらつきがみられた。
そこで人々は考えた。
これらを精密に比較してその平均値を採用することで正しい「1メートル」が得られるはずだ――と。
それはよい考えに思われた。ガウスの最小二乗法がその保証を与えていたからである。
ところが、そこに一つの「メートル棒」が持ち込まれた。人々はそれをメートル原器コピーの列に加えようとした。しかしその棒は驚くべきことを主張した。
「私は失われていたメートル原器だ」というのである。
人々はこの棒をコピーの列に加えるべきかどうか悩んだ。
もし、その棒の主張が正しかった場合、それを加えた上で平均すればより正しい値を得るだろう。しかしそれが愚かな考えであることはすぐに気づかれた。
というのも、その棒の主張が正しいのであれば、その棒自身の長さをもって「1メートル」とすべきであり、他の棒はすべて捨てられるべきだからである。
しかし、もしその棒が嘘を言っていたり、自分で勘違いをしているだけだったりしたらどうだろう。明らかにその棒はメートル原器コピーの列に加えられるべきではない。
なぜなら、それは偽物か出処の定かではないまがい物であって、そんなことをすれば、せっかくのメートル近似が台無しになってしまうからだ。
結局、彼らが出した結論は「メートル原器を名乗る棒を別扱いとすべし」ということであった。――
前章(Chapter 1 - Essay 4)でみた「キリスト教に対する道徳的解釈」と並んでよくみられる考え方の一つに「いずれの宗教も同一の真理に至る道である」とする宗教観がある。
この見方においては、キリスト教を含め、どの宗教も最終的には同じ場が目指されていて、ただそこへ至る道が異なっているだけとされる。
「真の宗教」は互いの真理を尊重しこれを共有するものでなければならないはずであるから、諸宗教はみなこの理解の下に立つべきであり、これを拒否する宗教は自らを絶対とする排他的かつ独善的な悪い種類の宗教だというのである。
前章のF.F.ブルースに倣って言えば「この議論はもっともらしく聞こえる」ということになるだろう。
しかし残念ながらこの宗教理解もまたキリスト教になじまない。キリスト教は他宗教と真理を共有しあうのではなくむしろ争うのであり、上の見方からすれば「悪い」宗教であるといえる。したがってこの超宗教的な宗教観は、前章の道徳的見方と同様、キリスト教への接近を妨げるのである。
ただし宗教へのこのような考え方に対して「キリスト教とはそういうものではない」と告げるだけではChapter 1 - Essay 4で批判したブルースの轍を踏むことになるので、超宗教的見方そのものについて、その不適切さが示されることが望まれる。上のたとえはそのためのものである。
ヨハネ福音書の中でイエスは繰り返し「わたしが真理である」と語るが、この真理主張が、キリスト教を他宗教との統合を許さない性質のものとしている。それは単に真理は一つだからということなのではない。
「メートル原器を名乗る棒」は「真理」そのものを名乗ることにより、人々が求める「真理への接近のためのデータ」という性質を持たなかった。
人々が行う真理探究法は真理とみたものを総合(例えば、その全てを取り込むことや平均化)することであったが、「メートル原器を名乗る棒」は真理を知る方法はそれではないと言っている。「わたし」を知ることが真理を知ることだと言う。
しかし自らを真理とするこの主張は、意図的に誤った悪意の観測値や、改ざんされた不正なデータと、ある意味同じ、危険な主張である。そこには誠意をもって観測された「真理の近似」という安全な性質がない。
それは判定者にD.デイヴィッドソンの「好意の原理」による扱い以上の扱いを要求するものであり、
しかしキリスト教はこの類の宗教であって、「メートル原器を名乗る棒」と同じように他の宗教とは別扱いとされなければならない宗教である。
この結果、「真の宗教は互いに真理を共有する」とする超宗教はキリスト教を仲間に迎えることができない。キリスト教が他の宗教をはじくからではなく、キリスト教がはじかれるからである。
そこで「超宗教」という概念は不完全なものとなる。この立場は「真理そのものを名乗る宗教」が存在する限り、それを排除せざるを得ないからである。