第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (2)

Section 2 信仰の4要素

「ウェストミンスター信仰告白」にキリスト教信仰の内容を尋ねてみよう。「ウェストミンスター信仰告白」は宗教改革後の17世紀イギリスにおいて、誕生間もないプロテスタント教会各派の信仰内容のばらつきを収めることを目的として、イギリス国教会(聖公会)によって制定されたものである。

中心教理はその第8章「仲保者キリストについて」に述べられている。その中から二、四、五を抜粋する。[1]

二 「三位一体の第二人格である神のみ子は、まことの永遠の神でいまし、み父とひとつの本質でまた同等でありながら、時満ちて、自ら人間の性質を、それに属するすべての本質的固有性と共通的弱さもろとも取られ、しかも罪はなかった。彼は、聖霊の力により、処女マリヤの胎に彼女の本質をとって、みごもられた。」

四 「主イエスは…その霊魂において、最もひどい苦しみを直接的に忍び、その肉体において、最も苦しい痛みを耐え、十字架にかけられて死に、葬られて死の力のもとに留まられたが、朽ち果てなかった。受難されたのと同一のからだで、三日目に死人の中からよみがえり、そのからだをもって天に昇られ、み父の右に座して、執り成しておられる。そして世の終りに、人間とみ使をさばくために再来される。」

五 「主イエスは永遠のみたまによって、ひとたび神にささげられたその完全な服従と自己犠牲により、み父の義を全く満たされた。そして和解のみならず、天国の永遠の嗣業を、み父が彼に与えられたすべての者のために買いとられた。」

歴史的な信条や告白文を前にすると窮屈な感じを受けるものだが、それはこれらが信仰を醸成することを目的としたものではなく、教派的分派から自らを分かつ正統教義を確認するためのものだからである。

改めていうまでもないが、信仰告白や教義は信仰成立後に述べるものであって、信仰成立前の人々を益するためのものではない。これを唱えて信仰を持つ人はいない。信仰成立以前の人々のために用意されているのは、「信仰論」Chapter 3で扱った新約聖書の「キリスト教命題」群である。

ここで承認されている事柄をまとめると以下のようになる。

   「ウェストミンスター信仰告白」の要素表

<1> イエスの十字架刑が罪のあがないのわざであることの承認。

<2> 聖書に記されたイエスの十字架刑などの歴史上のできごとの事実承認。

<3> 処女降誕や復活といった奇跡が実在したことの承認。またそれらの奇跡には特別な意味が付与されている。

<4> 三位一体、永遠の神、聖霊などの天上的事象についての承認。

<5> 世界の終末についての聖書記事の承認

これらの信仰要素を可能な限り簡潔にまとめたいが、<5>の終末論については省略してよいだろう。「ヨハネの黙示録」に述べられた終末観には、キリストの再臨や天使などの超越的と思われる事象が含まれていて、終末がそれ自体、日常的な経験を越えた事象であるのか、あるいはそれらは黙示文学の性格がもたらす象徴的表現であって、終末とはあくまでも明日の延長にあるような単なる未来の出来事であるのかということの区別が難しい。

しかし前者の場合、終末論が持つ諸要素は<4>に還元され、後者の場合は<2>に還元される。また<5>には、黙示録という預言書の予言的性格について認めるという信仰も含まれるが、これは<3>に還元されるだろう。したがってここでは、上の<1>~<4>を次のようにまとめて、これをキリスト教信仰の全要素とみることにしたい。

<1> 聖書に記された十字架刑などの通常の出来事に付与された教義的解釈の承認

<2> 聖書に記された通常の出来事が実際の史実であることの承認

<3> 奇跡など、通常の出来事ではない事象の生起可能性の承認

<4> 三位一体などの天上的事象についての諸教理の承認

<1>~<4>をマトリクス分析風に展開すると、キリスト教が信仰において承認する内容を以下のようにまとめることができる。

信仰要素の内訳表

横軸に、各信仰内容が属すると考えられる場を[内在][超越的][超越]として設定する。これらは順に、聖書に書かれている通常のできごと、奇跡、天上的事象に対応する。それぞれの具体例として、十字架、復活、三位一体を挙げている。

この[内在][超越的][超越]区分は、「信仰論」Chapter 4-Confirmation 2に示したトマス・アクィナスの認識観を使って次のように定義できる。

トマスの認識観では、「知的承認」としての認識には「感覚」「直知」「学知」がある。トマスは理性の二つの能力を「感覚による表象と知性による抽象」と述べているので、[2] これにより「直知」と「学知」をまとめて広い意味での「理解」と呼ぶことにすると、認識とは「感覚」と、この「理解」によって成立するものということになる。

そして、その両方が成立する事象を「内在」、「感覚」できるが「理解」できない事象を「超越的」、「感覚」も「理解」もできない、あるいは「理解」は可能であるかもしれないがけっして「感覚」できない事象を「超越」として定めることができる。

ここで「超越的」という概念は超越ではなく内在世界に属する。「詩的」というのが詩ではなく散文を指すのと同様の用法である。聖書によれば「奇跡」は経験の対象であり、ただ通常の理解が及ばないできごととして記されているので、奇跡は超越のできごとではなく超越に関わるところの内在、すなわち超越的なできごととして考えられるのである。

縦軸には、事実と解釈を分ける。「十字架の信仰」という場合には、「十字架刑はイエスによる我々の罪の贖いである」というイエスの十字架刑についての教義的解釈を指すが、それだけではなく、その前提として、そのできごとが歴史上に存在したことへの承認が含まれている。つまり、「十字架の信仰」には解釈と事実承認の二つが含まれており、これらを信仰要素の第<1>点目、第<2>点目として取り出し、後の理性区分との対応に供するのである。

「復活信仰」という場合も同様であり、イエスの復活の意味とともに、そういった事象が起きたことが認められることになる。しかし「復活信仰」では、この「解釈の承認」と「事実の承認」の他にもう一つ承認されていることがある。

それは、奇跡という特殊な事象が生起可能であることについての承認である。イエスの十字架刑は教義的解釈を伴わなければいわば通常のできごとにすぎないが、イエスの復活はただそれだけで特殊なできごとである。復活信仰においては、この奇跡の可能性を認めているということが、十字架信仰とは別の信仰要素として取り出されなければならない。これを信仰要素の第<3>点目としよう。

信仰に含まれる意志的承認の第<4>点目としては、イエスやパウロが教えた多くの天上的教義があり、これが超越領域に区分される。

以上、信仰内容を4種に分類したが、このように見てくると、<2>「十字架等に対する史実としての承認」は史学の問題、つまり理性的認識のみに関わる問題であること、また、<4>「天上的事象の承認」は信仰のみに関わる問題であるという見通しが出てくる。すなわち、信仰内容の<2>は理性に対して接合的であり、<4>は理性に対して分離的である。

しかしここで、理性に対して接合的であるということが、理性になじみやすく承認が容易な信仰要素だということではない。逆であり、理性認識と重なる<2>の信仰部分は、その知識としての性質が理性から問われることになり、それだけ承認が難しいものとなるのである。当論考「信仰論」Chapter 4で扱った「史的イエス」問題の困難さがそれを物語っている。

むしろ<4>のように、明らかにただ信じるほかないような信仰部分は、当初から理性的要求から切り離されており、少なくとも信仰と理性論においては問題が少ないといえる。それゆえ信仰と理性論においては、<4>の「天上的教え」の承認に関しては、イエスへの信仰が確立した後の「信仰上の課題」という位置づけでよく、扱う必要はないのである。

なお、Chapter 1-Breakではこの理解が覆される可能性があることに触れたが、<4>が他の3つの信仰要素に比べて「天上的」であるという位置づけは変わらない。Breakでの反省によれば、これら天上的教義に対する理性の親和度合いが変わる可能性があるということだが、いずれにしてもそれは当論考の課題ではない。私が負う課題は<1>~<3>までであり、<1>と<2>は「信仰論」において解決された。<3>は「信仰と理性論」Chapter 4で扱われる。

さて、我々の信仰には、上に含めていない聖書の倫理に対する価値的な承認も含まれている。聖書の倫理的教えについては、I.カントやB.ラッセルのように、イエスの教えが価値的に最高のものではないことを論理的に主張する人もあることから、[3] それが理性に対して親和的な信仰要素であることは明らかである。反対や否定の見解を理性的に展開できるということは、聖書の史実部分であれ、倫理部分であれ、それが理性に対して接合的な関係を持っているということである。

それゆえ先に述べたように、この部分の理性承認には難しいものがある。当論考においても「第一部 信仰論」Chapter 1は、倫理と信仰についての筆者の回想に留まるものであり、Chapter 4では史実と信仰問題に、前世紀前半までは誤謬の源泉とみられてきた後件肯定式推論を援用している。

しかしいずれにしても聖書における倫理的教えは「天上的教え」と同様に、キリスト教信仰への入口というのではなく、また、キリスト教信仰の核心でもないということはいえるので、ここでは「天上的教え」と同じく、信仰が成立した後の課題とみることとしておきたい。[4]

さて、以上の分類からは、キリスト教信仰が天上的な事柄に関わるというよりは、むしろ内在事象に深く関係したものであることがみてとれる。

「信仰論」Chapter 3でみた使徒宣教の経緯から理解して、イエスの十字架と復活が信仰の入口であることは明らかであるから、キリスト教信仰においては、イエスに関わるところのこれら内在のできごとに対する何らかの理性的承認ということが最も重要といえる。

なお、「信仰の内訳表」の縦軸の「解釈」および「承認」の基本的意味が述べられていないが、これらは理性側からの定義を待つ必要がある。ここではとりあえず、信仰が、互いに還元できない四つの領域に分けられることを了解して、以後、理性についての分類を試みた上で、それとの関連を見ることにしたい。