第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (1)

Section 1 信仰と理性論の全体

「信仰と理性論」の内容を明確にしておこう。当論考は「信仰と理性論」を

「信仰と理性の関係についての理解を得て、現状の理性-信仰問題を解くこと」

とする。ここで扱われる「信仰と理性」の主題は以下の通りである。

未信仰と信仰(信仰論」Chapter 3)

史実と信仰 (信仰論」Chapter 4)

理性と信仰 (信仰と理性論」Chapter 1, Chapter 2)

哲学と神学 (信仰と理性論」Chapter 3)

内在と超越 (信仰と理性論」Chapter 4)

リスト3行目の「理性と信仰」は、信仰および理性そのものを論述対象とする。これが冒頭の「定義」前半部の「信仰と理性の関係についての理解を得て」に該当し、一般に「信仰と理性論」が狭義の意味でいわれる場合はこの分野を指すとしてよい。

他の主題は「定義」後半の「現状の理性-信仰問題を解くこと」に該当し、当論考においても、ここまで、「未信仰と信仰」として、未信仰状態からいかにして信仰が成立するかを、また、「史実と信仰」として、史実のイエスの認識と信仰の関係がいかにあるかを扱ってきた。

信仰と理性論の全体はどのようなものだろうか。上リストの他にも「科学とキリスト教」「心理学と宗教」リストには挙げていないが「信仰論」Chapter 1 で扱った「倫理と信仰」同 Chapter 2 に関連して「世俗と原理主義」などの主題が考えられ、このようにして論述分野を列挙していけばやがてその全体を獲得できると思われる。しかしそれは終わりのはっきりしない手続きである。

カントは『純粋理性批判』の中で「すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引き」B95)というものを述べているが、信仰と理性論の全体もまた、単に分野を枚挙していくのではなく、全分野が必ず依拠しなければならない理性の方法と、扱うべき信仰要素の特定によって、その全体を獲得することができるだろう。

すなわち信仰と理性論では、主題ではなく方法による分類を考えることができる。最近の哲学の教科書によれば、これまでに知られている全科学と哲学における理論形式は、演繹、仮説演繹、帰納の3種類であるとされる。[1] これを理性の方法とすることができるだろう。

またキリスト教には信仰告白や信条という歴史的な教義が存在しているので、これを使って信仰の内容を一定数にまとめることも難しくない。

したがって「信仰と理性論」が理性と信仰の関係を述べるものであるとき、その全体は、理性の方法と信仰要素のすべての組み合せから得られる一つの表によって表現することができると考えられる。この二次元マトリクスに表された理性と信仰の「多対多関係」が信仰と理性関係の全体である。

さて、信仰と理性論として数えられる既存の研究においては、理性と信仰の関係を接合的・親和的とみるか、断絶的・対立的とみるかという、両者の連続/不連続を問う形での問題設定が行われてきた。

トマス神学において信仰と理性は接合的なものと解され、[2] カント哲学において分離的とされる。[3]

また次章(Chapter 3)に扱うA.カイパー、V.ティルらのオランダ神学における「対立の原理」[4] では、両者は信仰者内において親和的でありつつ、信仰者と非信仰者間においては全面的な対立があるとされる。

しかしながら聖書において理性と信仰の関係は、ときに対立的であり(コロサイ2・8)ときに接合的であるものとして述べられている(Ⅰコリント14・15、19)これは我々の経験とも合致するところであるだろう。

キリスト教教義を何らかの契機から承認している点で我々の理性は信仰と親和的であり、また、信仰成立後においてもなお理解しがたい教義が残されているという点で、理性と信仰の境界と断絶は信仰者の中にも存在しているのである。

したがって、理性と信仰が親和的か断絶的かを問う設定は、これらが基本的に持っている構造に対して適切な設定とはいえないだろう。理性と信仰は、聖書が述べるとおり連続および不連続、両者の関係にあるのであり、そのようなものとして問題設定が行われなければならない。

そこで信仰と理性の関係問題とは、それらがどのようなふうに連続的でありまた断絶的であるのかを明らかにするという設定でなければならない。オランダ神学においてはこの両者が上手い具合に取り入れられているように見えるが、次章(Chapter 3)の批判に見る通り、その設定は偏ったものであり、信仰者の実態も理性的思惟の実態も的確に捉えられていない。

いずれにしてもこれまでの見方では、接合的であれ対立的であれその両者であれ、信仰と理性は常に「一対一」の関係に置かれてきたのである。しかし両者は「多対多」関係として設定することが必要である。

信仰と理性の関係を一対一とみるとき、たとえこれを対立分離関係と捉えたとしても、両者の間に境界を定めることはできないだろう。というのも、このとき信仰と理性の間に引かれる一本の線は我々に何も教えないだろうからである。

しかし信仰と理性の関係を多対多として面状に捉えるならば、信仰と理性の境界線は様々に設定でき、それが信仰者と未信仰者それぞれにおける理性と信仰の状態を表現し、あるいはその中間にあるような人々の状況をも、もちろん模式的にではあるが表現できる可能性が出てくるのである。

以下は、このような信仰と理性の「多対多対応表」および、それによる「理性と信仰の境界線」の策定を目ざすことで、信仰と理性の関係を明らかにしようとするものである。まずは信仰および理性それぞれがどのような内容を持つかを整理してみたい。この分析の後、両者は「多対多対応表」で総合される。