第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 4 超越的認識の可能性 (28)「現象と物自体の分離」思想の考察

    補論5 イエスが語った事柄の正しさは何によって知ることができるか

トマス・アクィナスの信仰観にやや詳しく触れたで信仰の定義を次のように確認した。

「信仰とは客観的証拠のないあるものに対する主観的な信念である」

これがトマス一人によるものではなく、I.カント、B.ラッセルら、時代と立場を超えて同意されている定義であることを見た。

客観的確証のない「あるもの」とは、イエスが救い主キリストであること、および信仰によってイエスの十字架による罪の赦しが与えられることを主内容とするキリスト教教義のことである。当論考では、そのような客観的確証が存在していないものをどのようにして信じることができるのかを求めて「信仰論」が展開された。その結果、二つの主たる信仰成立原理が見いだされた。

一つはかつてイエスと共にあった弟子たちが持ったもので、生前のイエスがもたらし、十字架の死によって潰えたイエスへの心証が、イエスの復活に関するある解釈によって回復する「既知真理回復型」の信仰成立原理である。もう一つはイエスと共にない使徒後の我々が持つものであり、イエスの十字架刑に対するある解釈が、我々の罪理解を正しく深化させるという認識による「未知真理覚醒型」の信仰成立原理である。

ここで行われた「ある解釈」、すなわち、復活命題における「神はイエスを正しいとした」という解釈、十字架命題における「我々の罪は赦してもらう以外に解決はない」という解釈は、その正しさが客観的に確証されたものではない。それらはただ我々がその真であることを「意志的に承認した」事柄である(第一部 Chapter 4 - Confirmation 2

信仰とは客観的な証明に適さない事柄を意志によって真と認めることである。ただし、このときイエスの十字架刑の歴史性、および復活の出来事の事実性は意志によって承認する事柄ではない。すなわちそれは信仰の事柄ではない。これらは客観的な証明はできないが、本来、客観的な証明に適した事象であることに違いないからである。仮に監視カメラのような現代の記録機器がイエスの納められた墓に取り付けられていたならば、復活が事実であるか否かについての何らかの客観的情報が得られたことであるだろう。

このことは、十字架および復活についての解釈と、その事実性の区別に関して、「信仰によって真と認める事柄と、信仰成立以前に真と認められなければならない事柄」として当該箇所(第一部 Chapter 4 - Consideration 1)に述べたところである。

このようにしてキリスト教信仰の獲得の経緯が明らかにされた。信仰論の完成である。この信仰論は、聖化という信仰後の課題に目を向けさせられがちである信仰者に信仰の原点を振り返らさせるものであり、未信仰者に対しては信仰への道筋を示すものである。

ただし信仰論には聖化論と似た罠がある。聖化論が、信仰の原点よりも、自分がクリスチャンらしくなることに心を向けさせて信仰者の精力のほとんどをそこに費やさせる教えとなりかねないのと同じく、信仰論は、信仰の原点を訪ねる者がそれを確認することで、それ以上に問うものがないかのような錯覚を与える可能性がある。信仰の確かさに満足した者は、その結果として自分がどのようなものまでを信じているのかという、信仰論の先に存在するものを見ないですませてしまうかもしれない。

信仰の先には何があるのか。これは信仰によって何を真として受け入れたことになるのかを確認する問いである。

信仰論が信仰成立原理として扱うのは十字架と復活に関する「解釈」である。これらの「解釈」については、それを意志的に承認するということであってよい。というのも、「罪の赦しが与えられる」ことや「神がイエスを是認した」ことは、イエスの十字架や復活をたとえ目撃したとしても、そこから得られる判断ではないからである。それらは「イエスを見ても分からないこと」(第一部 信仰論 Chapter 3 - Review 1)であって、そのようなものを意志的に承認することが信仰である。

意志的にある事柄の真であることを承認するということ、すなわち信仰を持つということは、通常は一大事である。信じるよりも信じない方が易しい。このことも信仰を得たことに安心し、それ以上のことを考えずに済ませることの要因となる。しかし、いったん信仰を得た者の信仰は、ただ十字架と復活の解釈を受け入れて終わるわけではない。キリスト教命題によって「イエスをキリストと信じる」というのはキリスト教信仰の入口である。その先に何があるのか。そこにはイエスが語ったもろもろの言葉がある。

例えば「神は慈愛深き我らの父である」とイエスは教えたが、我々はイエスをキリストと信じる信仰によって、イエスが教えた事柄についてもそれを真実なこととして受け入れることになる。これは信仰において自然なことであり、ローテの原理(第一部 信仰論 Chapter 2 - Argument 2)に照らせば論理的な帰結ともいえる。「イエスが聖書を『神のことば』として扱っていたことは確かなので、我々もイエスが信じていた通りに聖書を『神のことば』として信じる」という聖書信仰に関するローテの原理はここでも活きるのである。

ただしこれらのことは意志による承認であるから、いずれも主観的な確信の域を出るものではない。キリスト教命題による信仰は特定の解釈に対する主観的確信であるし、その結果として、イエスを信じるので彼が述べたことも信じるというローテの原理も、初めにイエスを信じるところで主観性が出発点となっていることが明らかである。

ところで、このように我々の信仰が主観的確信の域を出ないことは最初から分かっていたことである。信仰とは客観的証拠のないものに対する主観的な信念だからである。当節冒頭に示したトマスの節でそれは十分に確認済みのことであった。

すなわち、客観的には、イエスの「神は慈愛深き我らの父である」という教えを確証する証拠はないのであり、それが真実であるか否かは分からないに決まっていることとしなければならない。一方で、主観的には、我々はキリスト教命題を通じてイエスを真実な方として信じるのであり、その真実な方が教えた事柄を真として認めることは当然のことであり、容易なことであるとも考える。

このように、イエスが教えた事柄の真実性については、知ることの困難と信じることの容易さという二つが結論となるのである。

しかしこのところに、なお問われねばならないことがあるのではないかということが当節の論題である。

キリスト教命題によってイエスを信じ、その後はローテの原理でイエスが述べたことを真実として受け取ることは信仰のあり方として誤りではない。しかし、キリスト教信仰がどこまでも主観的信念に留まるとすれば、それがイエスの十字架と復活の事実に依拠したものであるとはいえ、事実ではなく解釈によって得られた信仰である以上、この信仰は事実依拠性を失っていることになりはしないだろうか。確かに「事実がなければ解釈もない」第一部 信仰論 Chapter 3 - Ricercare)のであるから、この懸念は杞憂にすぎない。しかし次のことを考えるとき、新たな難点が見えてくるのではないか。

それは、もしキリスト教信仰がどこまでも主観的信念に留まるものとすれば、他の宗教における信仰との違いを見いだすことは困難だということに表れる。キリスト教信仰が主観的な信念である上は、たとえ信仰の内容は違っているとしても、他の宗教の信心と同じ種類の信仰であると言わねばならないだろう。それでよいとすることももちろん可能だ。キリスト教が他宗教と違っていなければならない謂れはないのかもしれない。しかし本当にそういうことなのか。

讃美について述べた節で(第一部 Chapter 3 - Proposition 5讃美の源は神の絶対性にあり、その点でキリスト教の神の性質は仏教の高僧らが生み出した想念としての阿弥陀仏とは異なることを書いた。では、そもそもイエスが教えた神が絶対他者であると、どうして言えるのか。

親鸞は『教行信証』で、浄土門信仰の正しさを『無量寿経』などの中国経典に基づかせて論証した。イエスの神の教えは旧約聖書に基づいたものである。それぞれがそれぞれの経典に基づいて神的存在を唱えるとき、その経典の先に何があるのか。それらの経典に書かれていることの真実性を保証するものは何もないのではないか。

このことは、ローテの原理によって、イエスが教えたことの真偽をすべてイエスに負わせるときに引き起こされる疑問である。「神が恵み深き父であるかどうかは、実はイエスがそう教えたからそうだと思っているだけで私は知らない、イエスに聞いてくれ」とは、キリスト教信仰のすべてを主観的な確信に留めるときに避けられない我々の信仰態度となる。これは開き直りや不誠実ではなく、本当に我々はそのようにしか言えないのである。これでよいのだろうか。これが当節の問題意識である。

親鸞は『歎異抄』第二条で、念仏に対する批判にさらされて関東の地からはるばる京都に訊ね来たった弟子に、念仏が浄土に生まれる種であるか地獄におちる業であるか「存知せざるなり」と告げる。「法然の教えをただ信じているだけで、他の何かがあるわけではない」とも言う。

親鸞は、法然から受けた念仏以外の道が誤っていることについては疑いがないとしながら、だからと言って自分が信じる念仏が願った通りのものであるかは分からないとした。念仏宗旨の論拠が、中国の仏教経典以上には遡れないのである限り、それらの経典に書かれていることの真偽は彼の手の届かないところにある。親鸞が「存知せざる」と述べたことはもっともなことなのである。

親鸞の師 法然は、自説の正しさの根拠を自身の神秘体験に依拠させたとのことである。法然は「存知せざる」とは言わない。しかし、その神秘体験は法然自身にしか知られないものであり主観性を免れたものではない。

イエスは「わたしは父を知っている」ヨハネ17.25)と言う。イエスが神を「知っている」のであればイエスその人においてそれは確実な知識である。しかしそれはイエスの主観性の中にあり、外の者がその確かさを窺い知ることはできない。

このようにみると、信仰とは冒頭の定義に示されていたとおり、キリスト教、仏教を問わず主観的確信という主観性の中に閉じたものであって、いずれの宗教も、それ以上に主張すべきものを持たないのであるように見える。

ただし宗教におけるこれらの主観的信念が単なる思い込みとは違うことは理解しておきたい。例えば、親鸞は他者が救われないのでは困るとして還相回向(げんそうえこう)という教えを既存の教義に加えたという。[1] もしこのようなことが恣意的に行われたものであれば、その教えに何の真実味があるのかといぶかしく思わざるをえないだろう。

しかしこのときの親鸞の思考はおそらく次のようなものである。仏教には「真実な教え」というものが存在しているはずだが、それはまだ完全には見いだされていない。現在の仏教の教えは自力の信心から他力の信念に移行する中で「真実な教え」に近づいてきた。他力の教えこそが人間の救われがたさをよく捉えているからである。同様に、救いを拡大する還相回向は仏の慈悲をより深く捉えた「真実な教え」のはずで、それを示す経典も存在する。自分は初めてそれを見いだしたのであり、したがってこれは仏の教えに加えられなければならないものである。

このようなことが親鸞に働いている思考前提であったとすれば、それは現代科学の理論刷新の方法と同じである。事態をより広く説明できる理論はその理論仮定を含めて正しいとみなされる(第二部 Chapter 2 - Easy Study 3それがここで行われている後件肯定式推論の特質である。[2]

それはまた当論考の方法の一部をなしている。キリスト教の二大教義とされてきた十字架と復活が単なる教義ではなく信仰成立原理であることの確認(第一部 Chapter 3 - Proposition 1, 2復活命題が失われた経緯についての説明(第一部 Chapter 3 - Successionマルコ福音書の結尾が不自然であることの理由(第一部 Chapter 3 - 補論3)などの叙述は、そこに述べたことがいずれもこれまでに主張されてきた考え方よりも、それぞれの事象についてより深い納得を与えることになるような後件肯定式推論によって行われている。

それゆえこれらの叙述はキリスト教を飛び出す新説としてではなく、キリスト教の正統教義をより深く理解する考察として述べられた。特に、Proposition 2 に述べた十字架命題は、それについての叙述法だけではなく十字架命題そのものが後件肯定式推論による信仰成立原理であることから、その特徴を表わす「未知真理覚醒型」というラベルを付けて、この教義についてのより深い理解ここで「より深い理解」とは形式を捉えることであるを促すことを図ったのである。

しかしながら、キリスト教や仏教の教えが科学理論と異なるのは、その教えの正しさを観察などの手段によって確かめることができない点にある。科学理論では理論が示すところによって、その結論(すなわち後件)を事実によって検証(肯定)することができる。また科学理論は未だ見いだされていない事象を「予言」し、後にそれが確証されるということが可能だが、超越事象を対象とする宗教教義にこれらのことを望むことは困難である。第二部 Chapter 2 - Easy Study 3

そのような訳で、宗教的信念が科学的方法と類似する思考を持つものであったとしても、信仰はその主観性を脱することはできないのである。

宗教者は時に、自身の信仰が主観的確信にすぎないことの弱点を隠そうとしてか、何らの疑いも持たないことを誇示するような表情や態度を見せることがある。私はそのような信仰の表出に出会うと気持ち悪さを感じる。「確信している」というのは宗教者だけでなく狂信者の病的特徴でもあることがそう感じさせるのかもしれない。

このことは信仰論に留まっているだけでよいのかという思いを促す。自らの信仰を確信していることは宗教者が思う程には他者への説得力を持つことではない。この意味でも、キリスト教信仰の確信は、信仰論から得られる主観的確信の他に、さらに何らかのものを見ていなければならないのではないか。

キリスト教信仰が主観性の城壁を出るために必要であるのは、絶対他者の神、超越者の神とのつながりを示すものへの認識を得ることである。すなわち当章で扱った超越的認識である。カント哲学によって否定されたその認識は、当章での議論によってその可能性が確保された。では、それをどこに見いだせるだろうか。

一般に、宗教儀式と祈りには神秘性があると理解されている。ただしキリスト教の儀式は、例えばプロテスタントにおける聖餐式はイエスの最後の晩餐の記憶の刷新のためであることが式典中に述べられる。プロテスタントにおけるいま一つの聖礼典である洗礼式も、その場で霊的な何かが実際に起こることが標榜されているのではない。一方、カトリックの聖典礼は秘蹟とされ、隠された奇跡がそこに起こるとされる。他宗教の儀式も同様の事態にあるだろう。

しかし、これらの宗教儀式は、祈りや観想といったものを含め、たとえそれによって霊的事象が起きた、あるいは奇跡的に願いが実現した、神や仏を観たなどが主張されたとしても解釈の余地を残すものであり、他者にその事象は明らかではない。これらもまた宗教者の主観性の城に留まるのである。

イエスは「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません」ヨハネ5.31)と語り、続けて「わたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言している」36節)と語った。

次のようにも語っている。「もし、わたしが父のみわざを行っていないのであれば、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」ヨハネ10.37-38)

ここに語られた「わざ」とは狭義にはイエスの奇跡を指し、ヨハネ福音書では「七つのしるし」として知られているものである。すなわち、カナの婚礼で水をぶどう酒に変える(2章)遠隔地から子供の病気を治す(4章)長年に亘る病気を治す(5章)わずかなパンと魚を5000人の食事に増やす(6章)、ガリラヤ湖上を歩く(6章)、生まれながらの盲人の目を見えるようにする(9章)死んだラザロを蘇らす(11章)である。

これらの奇跡が福音書に記されている通りに実際に起きていたとすれば、その事象は、宗教儀式が信念や解釈の助けによって内在事象から超越事象に格上げされるのとは明らかに一線を画すものである。イエスによる奇跡はいずれもが多くの人の目に触れたこととして記されているからである。

聖書に長く親しんでいるとあちこちに記された奇跡記事をありふれたことに感じてくる。加えて、奇跡の「意義」にのみ目を向けがちな現代の聖書解釈は「奇跡を単なる奇跡に終わらせてはいけない」などと語る。しかし奇跡に「単なる奇跡」などない。それはすべて驚くべきことであって、福音書が書かれたこともその驚きが大きな動機であったことと思う。

イエスの奇跡は少なくともイエスが何らかの超越的な存在者であることを示している。奇跡はそのことの確証とみる以外には解釈のしようがない。福音書にも人々がイエスをそのように見たことを示す複数の記事がある(ヨハネ11.47、使徒4.16)

ただし奇跡を行う者は新約聖書においても少なからず登場し(使徒8.9)聖書が教える神とは異なる力によってそれを為す者もいたようである。実際、イエスはその種の非難を受けた(マルコ3.22)この点を含めて、イエスによる奇跡が彼が教えた「恵み深き父」由来のものであるかについてのとりあえずの判断は以下のようになるだろう。

1.奇跡が外部の人の目に明らかであること

2.奇跡が人が驚くものでありかつ常識的に良い働きであること

3.奇跡が神由来であるという意識がイエスにあること

仮にこれらが確認されたならば、イエスが教えた「神は慈愛深き我らの父である」を本当のこととする以外の解釈はなくなる。1.~3.が確認された上で、なおイエスの言うところを偽りとすることは不合理極まりないからである。

つまり、我々の信仰が主観性の域を越えて、イエスが言及した事柄の正しさにまで及ぶためには、イエスによって奇跡がなされていたことが必要となる。すなわちイエスが超越とのつながりを持つ存在者であることが奇跡の実行により明らかであり、かつ、その奇跡がイエスが語る超越存在の性質を示しているとき、イエスが語ったことの正しさが知れることになる。

したがってイエスが語った事柄までを含めたキリスト教信仰全体の正当性はイエスによる奇跡の有無にかかっているといえる。そのような奇跡は仮に七つでなくても本来的には一つで十分である。奇跡がかつて一度でもあったならそれは超越世界の存在を確定する出来事だからである。しかしイエスの奇跡なしに信じられた信仰は、他宗教の信仰と同じく信仰者の主観性の中に閉じた信仰であって、超越者へのつながりを見いだせない信仰である。

ただし福音書に記された奇跡がイエスによって本当に行われたかについて、我々はそれを確かめる方法を持たない。当論考では、奇跡の生起可能性を原理的に否定する哲学的主張を論難して奇跡の生起可能性を確保した(第二部 Chapter 4 - Section 4-5加えて、イエスが奇跡を行っていたことについてのこれまでに知られていない間接的証明を行った(第一部 Chapter 4 - Consideration 4それでもなおこれらの論証はイエスの奇跡が事実であったことの外堀的な、あるいは蓋然的な支えとなるものにすぎない。

イエスの奇跡の事実性を客観的に確認することができない以上、キリスト教信仰の真偽は不確定の中に置かれている。キリスト教命題から得た信仰の確信もこれを打ち破ることはできない。

この状況の中で、キリスト教信仰の確かさを、あたかも客観的な妥当性を持つもののように思うことは信仰を見誤っていることになるだろう。主観性がもたらす信仰の安定は客観性の不安定にさらされているべきと言った方がよいかもしれない。不確定の中に信仰を置く視座による、不確定さへの開かれた態度がむしろ健全な信仰といえる。

それは先ず、聖書に記された奇跡の重要性に目を開かせてくれる。我々の信仰がそれを支持するもののない世界の中にあることを意識することで、信仰の確かさを高めてくれるものに対する感受性が増すためである。やがてその視座は、聖書の中にだけではなく、身の回りに起こる実際の出来事の中に自身の信仰を保証する事柄が与えられていることに気がつくようにさせてくれるだろう。

またその視座を持つことは、同時に、未信仰者に対して自然に起こる我々の最初の反応が、信じないのは当然という友人のような共感であることを容易にもするはずである。信仰の定義をいま一度確認しておきたい。

「信仰とは客観的証拠のないあるものに対する主観的な信念である。」

我々が信じている事柄は、誰の目にもその正しさの証拠がないと見えているものである。信じられないのが当然である。しかし我々は Chapter 2直観主義論理の節で、肯定の反対は否定ではなく不明であることを学んだ。イエスの奇跡を肯定する我々は、この信仰が置かれた世界を奇跡など存在しない世界と見るのではなく、肯定の反対が「肯定の可能性を持つ不明」であることを覚え、この世界の内に超越を見いだす者でありたい。