第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 3 使徒的信仰の成立 (7)

Succession 十字架への逆行

前節では、ペテロの復活解釈が使徒の信仰を成立させケリュグマを生じさせたことをみた。このように、信仰を成立させる働きをするものを「信仰成立原理」と呼ぶことは適切であるだろう。また前節で「復活命題」と呼んだイエスの復活解釈を述べた文の一般的な呼称を「キリスト教命題」と呼ぶことにしたい。復活命題を含んでいる使徒のケリュグマはキリスト教の信仰成立原理でありキリスト教命題である、という具合である。

そこでこの使徒ケリュグマが、現代の我々にとっても信仰成立原理であるかを考えてみると、それが旧約聖書の知識とユダヤ教信仰を前提とすることから、それと無縁である者にとっては信仰成立原理とはならないと言わなければならないだろう。その上で、現在においても使徒的信仰が成立していることを肯定するならば、キリスト教においては使徒のケリュグマが唯一の信仰成立原理であるのではなく、信仰を生じさせるキリスト教命題が他にも存在するはずだということになる。

このことは、復活のメッセージを携えてアテネ伝道に臨んだパウロが旧約聖書と無縁であるギリシャの人々に対して歯が立たずに失敗していること、そして、使徒行伝2章の人々のように復活命題によって信仰に導かれたという人を、我々は実際にはほぼ知らないという現在の我々自身の経験からも裏付けられているといってよい。[1]

また、パウロは復活したイエスの「幻」との会合で回心したが(使徒9章)、彼が書簡の中で多く教えたのは復活よりも十字架の教義である。生涯に3度の伝道旅行を行ったパウロは、前節に挙げた使徒行伝13章のパウロケリュグマに認められる通り、2度目の伝道旅行の途上地アテネまで、イエスの復活を主たるメッセージとしていたと考えられる。使徒行伝17章にアテネでの復活説教が記録されているが、しかしおそらくここでの失敗がパウロに説教の内容を変えさせたのである。

語り始めに彼はアテネ市街の祭壇を引き合いに出し、しかし天地の主は人の手になる祭壇に住まうことはない、と順調に論を進めるのだったが、ひとりの人を神は死人の中からよみがえらせた、という肝心のくだりに入ったところで聴衆の失笑を買い、「またいつか聞くことにしよう」と言われて説教は失敗に終わる。愛する人から手酷い言葉を浴びせられた人のようにパウロは失意のうちにその場を去り、隣の都市コリントに向かう。

後に書かれた「コリント人への手紙第一」に、彼はその時の自分について「私があなたがたのところへ行ったとき~あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました」Ⅰコリント2.1-3)と記している。また同時に「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」Ⅰコリント2.2)とも書いている。

ここにパウロが記す「説得力のある知恵のことば」から「愚かな十字架のことば」への宣教の変化は、アテネで行った理屈っぽい説教から霊的な説教への移行であるというように教えられるが、そういうことではなかったと私はみる。ここにはもっと劇的な変化がある。

パウロにとって「知恵のことば」というのはイエスの復活説教と結びついたものである。前節で見たとおり、使徒行伝13章に記されているパウロのケリュグマは、ペテロのケリュグマと同様、旧約預言をイエスの復活に結びつけた「論証」である。

そこで、パウロが「知恵のことばではなく愚かな十字架のことば」によってコリントの人々に宣教したという場合、これは単に知的であるような論証的説教をやめたということではなく、イエスの復活を中心としたメッセージをやめたということが含意されていると理解されるのである。

2.1b)私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。(2.2)なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」Ⅰコリント 新改訳)

あなたがたのところへ行ったとき、私は、旧約聖書の預言を用いてイエスの復活が神の証しであることを宣べなかった。イエスの十字架のほかは何も知らないことに決めたからだ。

こうして復活につぐ第二の信仰成立原理としての十字架によるキリスト教命題が誕生したのである。

もっとも、保守派を代表する聖書注解者F.F.ブルースによれば、パウロがアテネの説教で失敗したことで方針を変えたという見方は「俗説」であって、パウロはアテネ前後で一貫した宣教方針を保ったとされる。[2] 確かに、上のようなパウロに対する見方は、人間的な興味を抱かせるものにすぎないといえるかもしれないが、しかし私はこの「俗説」には支持すべき点があると思う。

まず「何も知らないことにした」ということが強調されている点に注目したい。何かを知っているのだがそれを知らないことにしたというのである。パウロは何を知っていたのだろうか。もちろんその一つは言明にある通り「十字架につけられたイエス・キリスト」である。これについては知っているところをあなた方に伝えたという。

では「十字架につけられたイエス・キリストのほか何も知らないことにした」の「ほか」では何が意味されているのだろうか。本当は知っているが知らないことにした、その「ほか」とは何のことか。

ここでは直前にはっきりと「神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした」と書かれているので、これを指すとみるのが自然な読解であるだろう。「神のあかし」を知っているがそれは宣べ伝えずに「十字架につけられたイエス・キリスト」を宣べ伝えたということである。

この「神のあかし(μαρτυριον)」というのは、使徒行伝2章22節に、イエスが行った奇跡について「それらによって神はあなたがたにこの方の(メシヤであることを)[3] あかしをされた(αποδεδειγμενον)」という言い回しがあることから、イエスがキリストであることの証明をいうものであることがわかる。したがって、ここでパウロが書いた「神のあかし」とは、神による証しの最大のものとしてのイエスの復活を指すと理解されるのである。

上に引用した新改訳で「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」の「すなわち」と訳されているところは、原文ではギリシャ語και、英語のandに相当する語である。こういった基礎的な語は多義・多用性を持つので、一般的な「と」や「および」の他に、ここでの訳のような「すなわち」とも訳せる。さらに前文の言いかえをより強調する「しかも」などにも訳すことができるようである。

King James Version、Revised Standard Version、New International Version、Living Bibleなどでは「すなわち」ではなく、基本的な「と」としての意味が保存されるように訳されている。日本の文語訳は明確に「と」の意味に訳している。

文語訳「イエス・キリスト及びその十字架に釘つけられ給いし事」

英訳の中で特に意訳を旨とするLiving Bibleでは、他訳で「Jesus Christ and him crucified.」と原文の逐語訳となっている部分の「him crucified」という「目的格+過去分詞」の構文に、文法解釈の常套である「主語+述語」の関係をみて「Jesus Christ and his death on the cross.」と訳している。

直訳すれば「イエス・キリストと十字架上の彼の死」だが、「彼」と「十字架上の死」の間には主語、述語の関係があり、それを前面に出すと「イエス・キリスト及び彼が十字架上で死なれたこと」となり、日本の文語訳と同じになる。

原文でのこの箇所は一般的な英訳と同じく「'Ιησουν Χριστον και τουτον εσταυρωμενον.」と、5語からなる簡潔な文であり、写本間の異同もないことが分かっているので、文語訳およびLiving Bible訳が、原文に保持されたニュアンスを表現している可能性は十分にあるだろう。

すると、パウロが知っていることに含めたのが「イエス・キリストの生涯と彼が処刑されたこと」であるならば、知らないことにしたというのは、イエスのその後のことであるに違いないのである。すなわち、イエスがその後よみがえらされたことを、彼はこのとき知らないことにしたということである。

アテネ説教よりも以前に書かれた三つの書簡(ガラテヤ、テサロニケⅠ、Ⅱ)のうち二つには、冒頭のあいさつ部分にイエスの復活への言及がある。しかし第一コリント1章では復活の語は見当たらず、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」という言明がイエスへの言及を代表する文である(23節)。そして「十字架」に関わる語は4度使われている。パウロの挨拶文が復活に言及していないというこの1章全体の「雰囲気」もまた、直後の2章冒頭の「~のほか何も知らないことにした」というのが、「イエスの復活」であるとする見方を後押しするのである。

パウロがアテネ宣教以後に変化を見せたとする解釈を「俗説」として退ける傾向は、おそらくそう解すると、パウロの教説が一時的にせよ「イエスの復活」を捨てたように見えてしまうからであるだろう。しかもそのことが、必ずしも失敗だったとはいえないアテネでの宣教結果(数人の回心者があったことが記されている)に左右されてのことであるとすることは、使徒パウロに対する見方としてあまりに人間的であってふさわしくないことのように考えられたからであると思われる。

しかしこのような懸念は「福音」と「宣教」を一緒くたにした理解に基づくものであるにすぎない。たとえパウロが使徒13章のような「神のあかしとしてのイエスの復活」をコリント宣教において語らなかったとしても、そのことはパウロの福音から「イエスの復活」が除かれたことを意味するのではまったくないからである。

というのは、同じく第一コリント15章には、現在の教会の聖餐式の式文に使われている古い形式の福音ケリュグマが記され、そこにイエスのよみがえりが記されているが、パウロはこれを「あなたがたに宣べ伝えた福音(15.1)と書いていることによる。

つまり、人々に伝える「福音」としてはアテネ説教前後に変化はなく、そこには当然のことイエスの復活が含まれるが、ただ「宣教」における手だてが変わったということなのである。

このような変化は、すでに使徒13章のユダヤ教会堂での宣教が「旧約預言+信仰成立原理としてのイエスの復活」であったのに対し、17章のアレオパゴスの会議場での宣教が「異邦的宗教心+信仰成立原理としてのイエスの復活」に変えられていることからも知られるとおり、特別なことではなく、むしろパウロらしい変化といえるのである。

アテネではそれまでのユダヤ人向けの旧約聖書による論証に変えて、異邦人向けの論証を行って説教の前半部分はうまくいった。しかし後半部の、それまでユダヤ人には理解されてきた信仰成立原理としてのイエスの復活による訴えがうまくいかなかったので、コリントでは、この後半部の信仰成立原理のところを復活から十字架に変えたということである。

そしてこのとき異邦の人々に伝える「福音」の内容は変わらない。彼らには信ずべきものとしての「福音」が伝えられる。その上でパウロは、その「福音」をいかに信じうるものとして異教の人々に提示できるかを自らの課題として、十字架による訴えを新たに語るようになったのである。

かつてユダヤ人を宣教対象としていたときには「福音の復活部分」が有効なキリスト教命題であったが、異邦人相手には同じく「福音の十字架の死の部分」が新たなキリスト教命題とされた。

実際、この後のパウロの書簡は、ローマ書に代表されるように、復活ではなく十字架による教えに満ちたものとなっていく。パウロにおけるこの「福音」と「宣教」の分化には、信ずべき内容を正統性をもって確定する「教義学」と、いかにそれを信じえるかを追求する「信仰論」という現代キリスト教神学の原型が認められるのである。

そこで、初代教会においては主としてペテロがユダヤ人への使徒、パウロが異邦人への使徒(ローマ11.13、ガラテヤ2.7-9)であったことに合わせて、ペテロの復活解釈はユダヤ人に対するキリスト教命題であり、パウロの十字架教義は異邦人へのキリスト教命題であると理解することは、これらの教義に対する見通しとして妥当なものだろう。

復活命題が旧約聖書の神理解を背景とするものであるのに対し、十字架命題は人間の罪観念というユダヤ教よりも広い共有を期待してよい信念、すなわち「ユダヤ人も、ギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」ローマ3.9)という認識を背景として成立しているからである。

パウロの置かれた異邦人伝道という立場が、復活命題とは別のもっと有効な信仰成立原理としての十字架命題を必要としたかどうかということはなお検討を要する問題である。しかし彼の伝道がイエスを全く知らない人々を対象とし、そして他者への伝達というものが相互の共通理解を必要とするものとすれば、異邦での伝道においては、イエスのよみがえりよりも、その死を語る方が適切であったことは想像に難くない。

しかしながら、このパウロによる復活命題から十字架命題への宣教の劇的移行は、二世紀以後、ペテロの復活命題を教会から失わせることにつながったと考えられる。驚くべきことに思われるが、前節にみた初代教会の復活解釈は、古代の信条のいずれにもまったく継承されていない。[4]

これらにおいては十字架は教義として述べられているが、復活についてはその事実を告白するだけであり、ペテロが述べたような復活解釈を伝えている信条および信仰告白は皆無である。宗教改革時の「ハイデルベルク信仰問答」も、イエスの復活を「罪人の新生」Ⅰペテロ1:3)と「終末時のよみがえりの初穂」Ⅰコリント15:20)として述べるだけである。[5]

このことは二つの可能性を示している。一つは、当論考が前節に示したペテロケリュグマの読みが誤っており、それゆえ「復活命題」なるものはそもそも最初から存在せず、それゆえイエスの復活が信仰成立原理として後の信仰箇条に記録されなかったのは当然であるとすること。

そしてもう一つは、ここで見てきたように、パウロの宣教がアテネ宣教以後、変化したことの影響によって復活命題が失われていったということである。

「復活は神によるイエスの是認」という復活解釈があらためて確認されたのがいつの時代であるのか、私は正確なところを把握していないが、あるいはK.バルトが20世紀初めに『教会教義学』の「父の判決」[6] で述べたことにまで時代が下るのかもしれない。[7]

そしてバルトにおいてはただ神学的解釈として行われた復活理解が、初代教会のケリュグマとしてルカによりそのままの形で保存されていたことが見い出されたのは、当論考(前節 Proposition 1)においてであると私は考えている。

仮にそうであったとしても、十字架における義認というキリスト教のいま一つの最大信仰成立原理の復興が、16世紀の人、M.ルターによってであったことを思い起こせば、この事態も驚くことではない。十字架教義でさえその真意は長い間、教会から失われてきた。そうであるならば、十字架よりも限定的な効果にとどまる復活教義が、ユダヤからギリシャ、ローマへの異邦伝道の拡大とともに失われたとみることもそれほど突出した見方ではないのである。

そしてこれらが再び見い出されるまで、復活命題と十字架命題はその劣化版が教会を支配した。このことも事態を恒常化させた要因である。復活命題ではイエス復活によるイースターでの心理的歓喜の繰り返しが、十字架命題では修道院での修業による救いという考えが本来の信仰を代替し、キリスト教版「末法」の世紀が続いたのである。