第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 3    使徒的信仰の成立 (13)

(注)

■Prologue

[1] K.バルト『教会教義学』「第4巻和解論Ⅰ/2」新教出版社 1972年 p.241「かつて起こったことを今日どうしてわれわれのために起こったこととして認識できるのか」

[2] H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 p.176

■Consideration

[1] 20世紀アメリカの哲学者ウィリアム・オールストンの見解が次のように伝えられている。「神的なものについての信念のほうは、だれもが持っているわけではないし、またそれをはっきり必要としているわけでもない。宗教的経験や、この経験を反映している信念は、多分につけ足し的であり、人類の生存と繁栄には本質的なものではないように思える。」J.ヒック「宗教の哲学」勁草書房 1997年 p.167

■Review 1

[1] R.ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』「ブルトマン著作集9」新教出版社 1994年 pp.146-147

[2] E.ケーゼマン『新約神学の起源』 日本基督教団出版局 1973年 p.90

[3] ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』pp.134-135

[4] ケーゼマン『新約神学の起源』p.121

[5] ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』p.134

[6] R.ブルトマン『イエス』未来社 1989年 p.17

[7] 前掲書 p.12

[8] R.ブルトマン『パウロ神学に対する歴史的イエスの意義』「ブルトマン著作集11」新教出版社 1986年 p.235

[9] ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』p.134

[10] R.ブルトマン『新約聖書神学Ⅲ』〝付論 方法論と学説史〟「ブルトマン著作集5」新教出版社 1995年 p.195

[11] R.ブルトマン『新約聖書神学Ⅰ』「ブルトマン著作集3」新教出版社 1994年 p.112

[12] Bultmann, Rudolf, KERYGMA and MYTH, HARPER & ROW PUBLISHERS., New York, 1966 p.41

[13] J.H.チャールズワース『これだけは知っておきたい史的イエス』教文館 2012年 pp.66-68「キリスト者の学者たちの間に、いくつかのコンセンサスができ上がっていることが確認されるかもしれない。…第四に、イエスによる『神の国の教え』からイエスの最初期の弟子たちによる『キリストについての説教』への連続性がある。彼らは決して『史的イエス』と『信仰のキリスト』を規範的に区別し、分類しなかった。」ただしこのチャールズワースの記述は、ブルトマンが「史的イエスとケリュグマのキリスト」の違いとして述べたことを捉えていない。チャールズワースがここで言う意味での両者の連続性については、ブルトマンはそれを当然のこととしている。Chapter 4 - Consideration 4 注[4]での引用を参照のこと)

[14]「史的イエスと使徒ケリュグマの断絶」という問題設定には、「福音書時代のイエスは神的ではなかったが、その後、使徒時代においてイエスはキリストへと神格化された」という主流派神学での前提があるため、保守派がこの問題設定そのものを受け入れないのは当然である。この前提が誤ったものであることは、第一部 信仰論 Chapter 3 - Proposition 1 (Argument)、および、Chapter 4 - Consideration 4 参照。しかしそうだとしても、以下に述べる理由により「史実は信仰を与えない」という理解は保たれなければならない。

■Review 2

[1] ブルトマン『新約聖書神学Ⅲ』p.195

[2] R.ブルトマン『新約聖書と神話論』新教出版社 1980年 p.89

[3] ブルトマン『原始キリスト教のキリスト使信と史的イエスとの関係』p.145

[4] R.ブルトマン『新約聖書神学Ⅱ』「ブルトマン著作集4」新教出版社 1994年 p.340

[5] 現代神学ではG.タイセンがブルトマンの問題設定を鵜呑みにする形でそのまま引き継いでいる。「どのようにして私たちは、史的イエスからケーリュグマ〔宣教〕の神の子への移行を理解することができるでしょうか?」「なぜ彼(女)らは、イエスが自分自身についてそもそも語ったであろうことよりはるかに多くのことを彼について語っているのか」『史的イエスとケーリュグマ 学問的構成と信仰への道』https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564287570035200

■Argument

[1]『キリスト教大事典』〝ケリュグマ〟教文館 1983年 p.385

[2] ケーゼマン『新約神学の起源』p.91

[3] I.ハワード・マーシャル『使徒の働き』"ティンデル聖書注解" p.83 いのちのことは社 2012年

[4] 以下の引用は『新改訳聖書』日本聖書刊行会 昭和52年による。

[5]『新改訳聖書』では13章以外のペテロのケリュグマにも「しかし」という訳語があるが、これはギリシャ語原文には対応語のない補訳であるため引用ではカッコでくくってある。

[6] この見解は拙論『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』第16回(2010年)で述べたが、G.タイセン『イエスとパウロ』教文館(2012年)pp.152-154に、これと近い叙述を見ることができる。タイセンが述べるのは、十字架によって不当に低くされたイエスへの見方は復活と高挙によってバランスがとられ、それにより使徒の認知的不協和が低減されたということであるが、仮に、使徒たちに起こった心理的変遷がこのようなものであったとすれば、それが彼らに与えるのは「慰め」とか「望み」といったものにとどまるだろう。しかし使徒のケリュグマに認められるのは信仰上の慰めや望み以上のものであり、当節にみる通りそれはイエスに対する確信である。したがって「神によるイエスの是認」という復活命題の発見は、使徒の心理的バランスの調整としてではなく、生前のイエスに対して彼らが抱いていた心証の追認保証となる教義の発見として理解されなければならない。

タイセンが述べる「認知的不協和」という概念は、L.フェスティンガー/H.W.リーケン/S.シャクター著『予言がはずれるとき』1956年)に遡る。ある宗教集団の予言がはずれて何事も起こらなかった時、その集団の人々が解釈を変えてそれまでの信仰を維持・強化したことが記録されている。事象に対する解釈を変えることが「認知的不協和」解消の一つの方法であり、そこに信仰が生じるとされる。

当論考で見てきた復活命題の獲得によるキリスト教の誕生は「何事も起こらなかったときにそれまでの信仰的解釈を変えた」というのではなく、復活という予想だにしなかったことが起きたので、一時的に陥っていた絶望から、本来、使徒たちが抱いていたイエスへの心証を回復させたということであり経緯が異なる。もし復活がないなら我々の信仰には実質がない」コリント15.14)のであり、キリスト教においては信仰や解釈ではなく能動的である事実が先行しているのである。

ただし、何事も起きていないのに解釈を変えたか/事象に変化があったので解釈を変えたかということ、あるいは、それまでの主張を捨てて解釈を変更したのか/特定の主張のない状態から初めて解釈を採用するに至ったのかといった違いを、『予言がはずれるとき』の宗教集団とキリスト教の初期使徒団に認めて、前者を都合の良い解釈の採用、後者をより合理的である解釈の採用などとして区別することは可能であるものの、こういった点を強調しすぎると両者に対する公平な扱いとはいえなくなるだろう。

解釈変更であれ、新たな解釈の獲得であれ、いずれにしてもそれは、第二部 信仰と理性論 Chapter 2 - Easy Study 4「解釈学」に述べる後件肯定式推論であり、事象に対する不確かな推論である。それによって事象についての新たな知見が獲得されることが解釈的思惟の有効性であり、この点で『予言がはずれるとき』の宗教集団とキリスト教使徒団の解釈獲得は同じであると見なされなければならない。

前者における解釈変更は自己保身的なものであり、解釈採用の動機が使徒とは違うということも指摘できる。しかし最終的にはただその解釈が正しいものであったかどうかによって両者は分かたれるとしなければならない。『予言がはずれるとき』の人々もキリスト教も「事実依拠的」信仰であるので、その信仰の正否は最終的な事実が判定を下すのである。

[7] 児島宏子訳、チェーホフ『大学生』未知谷 2005年

■Succession

[1] 私自身、「復活命題」をある未信仰の友人に語ったことがあったが、彼は「それは神を信じている人にとっては意味のあることだと思うが、信仰のない者にとってはとっかかりのない話だ」と言った。

[2] F.F.Bruce I and II Corinthians (The New Century Bible Commentary). WM.B.Eerdmans Publishing, 1984, p.37

なお、パウロが説教の方針を変えたとみる「俗説」は、「知的な説教」から「愚かな説教」に変えたとするものだが、私の「俗説」は「復活の説教」を捨てて「十字架の説教」を行うようにしたとするもので、「俗説」としての内容が異なる。しかしいずれも、パウロがアテネ伝道の失敗から方針を変えたとみる点では同じ。

[3] 岩隈直『新訳ギリシヤ語辞典』山本書店 1982年

[4]『信条集』前編・後編 新教出版社(昭和30年、昭和32年)、渡辺信夫『古代教会の信仰告白』新教出版社 2002年、J.N.D.ケリー『初期キリスト教教理史』一麦出版社 2010年 参照

[5]『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社 1984年 p.42

[6] K.バルト『教会教義学』和解論Ⅰ/2 新教出版社 1972年 十四章「僕としての主イエス・キリスト」59節「神の子の従順」三「父の判決」p.276「彼が歩み給うた道に対する神の判決の宣告と執行』としてのよみがえらし」

[7] 復活を「神によるイエスの是認」として述べている日本の書物は以下。

前田豊編『キリスト教入門・ハイデルベルク信仰問答による・』小峯書店 昭和57年 p.67「キリストの復活は…地上で拒否されたかたが実は神に受け入れられたかたであったということを鮮やかに示す証拠です」宮田計 著)

ヴィルヘルム・ブッシュ『365日の主』いのちのことば社 1976年 p.128「彼は死刑に当たる』除け、除け』あの時以来、学者も民衆も等しく叫びます。穏和なキリスト教的ヨーロッパ市民は、そんなふうには叫びません。が、ひそかに、イエスを葬りたいと願い、『彼は死刑だ』という判決を是認します。多数決による判決! しかし、ただおひとりだけには、まだ解答が求められていません。それはイエス・キリストの父、生ける神です。復活は、イエスに対する最終的な判決文です。それにより、彼に対する人間のさまざまな判決は、ことごとく打ち破られます。」抜粋)

■Mission

[1]「十字架」に関する歴代の解釈については、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』教文館 2002年 参照

[2] 信仰が持つ普遍性としては、この「信仰の確信」の他に、「信仰論」Chapter 4で述べる「史的イエスR」による史的研究の不定性に対する不変性、信仰対象である神、イエス、聖霊が超越的存在であることから由来する超越性があると考えられる。

[3] I.カント『純粋理性批判 上』岩波文庫 1978年 p.23(AXV)

■Proposition 3

[1] S.キルケゴール『哲学的断片への非学問的あとがき』キルケゴール著作集8 白水社 1969年 p.34

[2] 前掲書 p.34

[3] 工藤綏夫(やすお)『キルケゴール』清水書院 昭和46年 p.155

■Proposition 4

[1] S.キルケゴール『反復』岩波文庫 1978年 p.37(原211)

[2] 前掲書 p.136(原274)

[3] 前掲書 p.10(原194)

[4] 前掲書 p.9(原193)

[5] 前掲書 p.149(原283)

■Proposition 5

[1] R.ブルトマン『共観福音書伝承史Ⅰ』ブルトマン著作集1 新教出版社 2004年 p.107

[2] 前掲書 p.221

■Remark

[1]「後件肯定式推論」については「信仰論」Chapter 3-Consideration参照。「解釈」についての詳細は「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy Study 4参照。

復活命題「復活は神によるイエスの是認を示す証しである」は、イエスの復活事象について可能な一つの解釈である。これを推論の形に述べ直すと、(AならばB)すなわち「A)活が神によるイエス是認の証しであるならば、B)エスは刑死のままに置かれるはずはない」、そして(現にB)すなわち「事実、イエスはよみがえった」という後件肯定式推論となる。後件肯定式推論では後件(イエスのよみがえり)の真であることによって前件(イエスの復活が神によるイエスの正しさの証しであること)の真を主張する。ただし後件肯定式推論での主張は前件肯定式推論とは異なり、可能性としての真を主張できるだけであり確実なものではない。これがどのようにして「客観的な確実性ではないものの主観的な必然性」を持つ真として主張されるかについては、当章 Proposition 1~5それぞれに示した。