第一部 信仰論 | 星加弘文 |
キリスト教信仰を持つことの一番の難しさは何か。イエスが過去の人物であることが信仰を難しくしているのだろうか。
確かに、前章に登場したH.ツァールントは神学の課題を――おそらくK.バルトの言葉を借りてであるが
「(神学は)われわれはどのようにして原始キリスト教のケリュグマ(宣教)をくり返すべきか、つまりかつて起こったことがどうすればわれわれにまた起こるようになるのか、という問いであり、すなわち、われわれの世界の現実の中での神の現実との出会いという問いである。」
神学の課題を「かつて使徒において成立した信仰を現代に成立させること」とするとき、これを果たすために踏むべき手順は自ずと定まっているように思われる。
それはまず、使徒においてどのように信仰が成立したかを把握し、次に、使徒と使徒後の信仰成立条件の違いを見て、最後に、その差を乗り越えるための方策を検討する――そのようにして、使徒たちに成立した信仰の「過去性」を克服することである。
しかしその最初の手続きである「かつての信仰はどう生じたか」を訊ねるとき、我々は意外な事実に直面する。それは使徒たちにとって、信仰の獲得が必ずしも容易ではなかったことを伝える福音書の記述である。
彼らはイエスと三年あまり行動を共にし、文字通りイエスを現在的存在として経験していたが、確たる信仰に至ることのないまま十字架刑の時点で離散しているのである。
彼らはどのようにイエスを見ていただろうか。マルコ福音書は「この方はどういう方なのだろうか」という弟子たちのモチーフを繰り返し記している。この問いかけは同福音書半ば(8章29節)のペテロの信仰告白で一つの頂点を迎えるが、その後も、イエスに対する無理解と恐れ、自己流の解釈が繰り返される。
この信仰告白から間もなく、イエスに付き従って山に登ったペテロらについて、福音書は、変貌するイエスに「言うべきことがわからなかった」「彼らは恐怖に打たれた」と伝えているのである。
先に、Chapter 2 - Easy Study 3で「史実と信仰」の課題を、
1.信仰に必要であるイエスの正確な史実が与えられていない
2.かといってイエスの獲得を史実研究に委ねると信仰の性質が損なわれる
の2点にまとめたが、実はこの問題には3つめのさらに深刻な課題がある。それは、ここでの福音書の弟子たちに認められるとおり、
3.たとえイエスが目の前にいたとしても彼を信じることは難しい
ということである。
「史実と信仰」問題では、「史実」と「信仰」の分離が常に問われてきた。それは我々の信仰にとって、イエスの史実が遠い過去のことだからとされてきたのである。しかしすでに弟子たちにおいて、イエスの現実と彼らの信仰、すなわち「史実」と「信仰」は分離していたのである。彼らはイエスという現実を前にしながら、それを適切に受け取れずにいた。ここに「史実と信仰」問題の原風景がある。
すなわち「史実と信仰」問題にはイエスの出来事の「過去性」という困難だけではなく、イエスが現在していてもなお存在する困難が含まれており、それは現代にある我々においても同様に存在していると考えられなければならないということである。
この困難は「過去性」の困難によって隠されてはならないし、混同されてもならない。我々がイエスの確実な知識を得るためにタイムマシンを駆って一世紀に降り立ったとしても、我々もまた弟子たちと同じく彼への信仰を難しく感じるだろう。
この困難に適切な名前をつけるのは難しいが、これをイエスの「隔絶性(他者性)」と呼んでおこう。この「隔絶性」とはいったい何なのか。