第一部 信仰論 | 星加弘文 |
パウロによって始められたと考えられる十字架教義が、我々の信仰成立原理であること、すなわちキリスト教命題であることをみてみよう。
十字架教義は、単に信じられるべき天上的教義――例えば「昇天後、イエスは神の右に座したもうた」のような――ではなく、それによって人が信仰を得るキリスト教の信仰成立原理である。それゆえ復活命題と同様、他の教義から区別されなければならない。このことが明瞭となるように、以下に詳しくこの教義について述べてみたい。
十字架教義がまとまって記されているのは「ローマ人への手紙」の次の箇所である。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3.21―24)
ルターが、この「福音」を16世紀になって再発見しなければならなかったということからも推察されるが、「贖いの死としてのイエスの十字架」教義を信仰成立原理として見いだすことは簡単ではない。それはこの教義が、我々が通常抱く罪理解とは異なることを述べているためである。
「神はイエスを正しいと判断した」という復活命題は、イエスの生前、彼を正しいと考えていた弟子たちの心証を追認した形となるものである。したがって復活命題の発見というのは、弟子たちがすでに知っていたことがらを後押しすることになるような教義の再発見であればよく、この場合、信仰成立原理としての復活教義は「既知真理回復型」のキリスト教命題といえる。イエスの死と共に失っていたかつての自己の信仰を「やはり私の理解は正しかった」として取り戻すのである。
これに対し、上に引用したローマ書の十字架教義を了解することは、復活命題のそれに勝る難しさがある。もしこれを復活命題と同じく、我々がもつ罪理解とその救済についての考えをまず正しいとし、それを追認保証し、改めてその理解を我々に呼び覚まさせる教義と考えるなら、我々はキリスト教を全然理解していないのである。
復活命題においては我々の現有理解が基礎となり、そこでの「イエスへの心証」は是認されたのだが、十字架命題においては、我々が通常抱いている「罪と救いについての考え」は是認されない。ここでは、キリスト教は自己の考えの延長に見いだされるのではなく「私の理解は間違っていた」という驚愕とともに発見される。
十字架のイエスの死の教義は、神の救いを我々が現在抱いている考えから推し量るべきではないという主張を含んでいる。というのも、この教義はあらかじめ神の側に立って、我々人間を罪の中にある、それゆえ適切な神理解を持てないものとして規定しているからである。
この教義によれば、罪に堕ちている我々は、神とその救いについて、最良の思惟を用いても正しく尋ねることができず、それゆえ、我々の思惟や経験からそれを推し量ろうとすることは理解を誤るだけであって、罪理解、救済理解というものは、ただ全く外から我々に与えられなければならない、つまり、神と罪について、我々は「啓示」によらなければそれを正しく知ることができないとされているのである。このため「啓示」は、少なくともそれを知らされた当初において、我々にとっては何の根拠も確証もなく見える。
ここで「啓示」の主張に分があるのか、それとも我々が抱く既存理解の方にそれに勝る言い分があるのかは五分五分といってよい。したがって我々としては、この段階で神の教義と対峠してこれを退けることも可能である。
しかしながら、理由なく我々の前に提示されるこの「啓示」、すなわち聖書は、人が抱く考えを相対化しようとするものであり、まずは神の言い分に耳を傾けてから、汝の誇り高い決断をしてもよかろうという主張でもある。「啓示」は我々が知らないでいることを教えるつもりでいるわけなので、それを知ることで我々が考えを変えることもありえるということが折り込まれているのである。
我々も20世紀以降の科学理論においては「とりあえず仮定を立ててその帰結を観察によって検証してみる」ということを行ってきており、「啓示」に「とりあえず耳を傾ける」ことはまったく道理に欠けた行為というわけではない。そこで、神の言い分に耳を傾けるなら、それは次のようなものである。
パウロはローマ人への手紙3章において、我々が考える正しさというものを「律法による義」と表現している。これはモーセの十戒をはじめとするユダヤ教律法を守ることによる正しさのことである。確かに、定められたことを守るとか、自分で善いとしたことを励行するという形式は、ユダヤ教に限らず、あらゆる宗教と道徳思想に共通するものといってよいだろう。
しかし、このような道徳にはいくつかの欠陥がある。決まりごとを守ることで正しいとされるという考えは、積極的に善をなすことよりも悪の回避という消極的傾向を生む。また、行為の原因としての心のあり方よりも、結果としての行為が評価対象となることから、形式だけの道徳心や偽善、宗教心を誇る生き方などを招くことにもなりやすいといえる。これらの傾向に対してイエスは、道徳の消極性については「黄金律」(マタイ7.12)を、うわべの道徳性については心の中に対する戒め(マタイ5.28)を与えたのである。
しかし、十字架教義が問題としたのは、イエス時代のユダヤ教に顕著であったとされる、こういった道徳意識の低さということではない。これらのことは実践的にいつの時代にも問題となることであり、現代に普及している宗教の多くをみれば、それらがもつ「教え」に関しては――もちろん大幅な譲歩をすればだが――イエスの「山上の説教」と同程度の倫理レベルにあるものも少なくないといえるかもしれない。
その場合、問題はその教義を実践することの困難ということであって、何が実践されるべきであるかについては正しい理解を得ているとみなされている。「言うは易く行うは難し」あるいは「言うは易く行うも易く心構えきわめて難し」というのが彼らの問題意識であって、つまり、ユダヤ教を含め、現代の諸宗教、そして現代人が抱いている一般的な倫理観においては、何が正しいことか、何が人間の義であるかについては正しく述べることができるということについては疑われていないのである。
しかし十字架教義が問題とし、キリスト教が他の宗教および倫理思想から区別されるのはこの点に関してである。問題は、我々が正しいことを実践できない、あるいは実践時に正しい心持ちを維持できないということではなく、何が正しいことであるかについて我々が思い違いをしていることだとこの教義は告げる。
すなわち、救いや義といったものが善行の報いとして得られるとか、罪は償うことで赦されるとか、義と認められるための宗教的な道があるといった理解が、十字架教義においては否定されているのである。我々の罪の解決として、我々と無関係であるイエス・キリストが十字架に架かったとするこの教えは、端的にいえば、我々の罪は償えないのであることを告げている。
先の箇所で、パウロは「律法による義」に代わり、「いまやイエス・キリストを信じる信仰による神の義が示された」(ローマ3.21)と語る。この「信仰による神の義」が、我々に啓示された神の救いである。
だがそうすると、神が何らかの方法において我々を義と認めるというその形において、「律法による義」も、この「信仰による義」も同じに見えなくはない。前者は律法遵守に励み、後者はイエスへの信仰に励むという、これらは同じ宗教性ではないだろうか。これもまた「義と認められるための宗教的な道」の一種ではないのか。
「行いではなく信仰によって義とされる」とは、教会において繰り返し語られてきたことであるが、イエス・キリストを信じることが我々の義として認められる(ローマ3.22)とはいったいどういうことなのか。それは律法に熱心なユダヤ教徒の代わりに、イエスに熱心なキリスト教徒をつくることを奨励しているにすぎないということなのだろうか。
「信仰によって義と認められる」とは、ことばの上では誤りではなく、パウロがそう語っているとおりのものである(ガラテヤ2.16)。しかしながら、この「信仰による義」ということが、旧約的「行いによる義」の新約版あるいはその信仰版のように理解されている間は、この教義は理解されない。その場合は、上の疑問のごとく、信仰と行いは結局同じことであって、信仰もまた行いの一種となり、信仰熱心であることと、律法遵守に熱心であることに大きな違いはないということになるだろう。
では、十字架教義は何をいうものなのか。いくつかの福音書のたとえがその真意を伝えている。マタイ福音書22章にある「王の披露宴のたとえ」には、この教義の独自性が表現されている。
――王は王子のための披露宴の席を設けるが、あらかじめ招待していた者たちはだれも来ようとしなかった。そこで、王は「大通りに出ていって出会った者をみな宴会に招け」と命じる。宴会場は善人、悪人でいっぱいになったが、その中に用意された礼服を着ていない者があって、その者は宴会から除かれてしまう。――
ここで「礼服を着る」というのがイエスを信じることの暗喩だが、これは善人悪人に関係なくとにかくイエスを信じていれば王の祝宴に与れるという粗雑なたとえのように聞こえる。
しかしこのたとえは我々自身が用意する服――すなわち信仰や行い――は、それがどんなに立派なものであっても神の前に通用しないことを意味している。この点を捉えると、たとえの解釈は次のようになる。
――神は誰彼かまわず宴会に招待することにした。悪人、偽善者、不品行者、心の汚れた者たち…神はもはやわれわれの内側を問うことをしない。なぜなら、もし本当にわれわれの内面が問われるなら、招待に値する者など一人としていないことを神は知っているからである。そこで神はわれらの心を覆いかくす礼服を用意した。どんな者でも、この礼服を着れば神の宴会に入れる。この礼服を着た者は、その実が何であれ清いとみなされるのである。われわれの側の価なしに、ただ神の一存によって清いとされる、そして神はその者を「聖」として取り分ける。われわれに与えられる「信仰による義」とはこのようなものなのである。――
しかしそうすると神は人間のうわべだけを見ようとしているかのようにも思われてくる。旧約聖書に「人はうわべを見るが主は心を見る」(Ⅰサムエル16.7)とあるが、神は我々のうわべをみるというのだろうか。
答えは然りかつ否である。礼服を着た者は、それによって自分が神の前に立ち得ない者であることを認めているのである。神はその点だけをみる。神が用意した礼服を着る者は、神の前に、ただイエス・キリストを着る以外にない身であることを認めた者となるのである。
もう一つ、ルカ福音書18章の「不正な裁判官のたとえ」を引いてみる。このたとえは、不正な裁判官というものはひっきりなしに訴え続けることでようやく耳を傾けるものだが、このような裁判官でさえいずれ訴えを取り上げるものとすれば、正しい神が審きを行わないはずはないと教えている。しかし先の十字架教義によれば、神もまた不正な裁判官のようであると私は思う。
不正について我々は敏感である。悪が行われる場合はもちろんそうだが、不正に善がなされる場合も不公平という言葉で我々はそれを快く思わない。
例えば、日本には恩赦という制度があって、これはおもに天皇に関わる何らかの節目に応じて、犯罪者の刑が減免されるというもので、私は恩赦が発せられるたびにこれを不快に思う。しかし私は先のたとえを思い起こして次のようにも思う。
――もし、神がわれらに対し厳正な審きを行う正しい裁判官なら私に救いはないだろうと。キリストが十字架にかかったので代わりにわれわれが赦されるなどという裁判は明らかに不正な裁判ではないか。しかしそのような不正な判決によらなければ自分に救いの目はないのだと。――
「イエス・キリストによって赦してもらう」という教えは、自分に対する正しい判決要求を掲げることを放棄することであり、我々の誇りを挫くものである。恩赦のごとく不当な赦しによってしか救われることのできない身であるという認識は、罪とそれに対して自分がなしえることについての、我々の生まれながらの考えを改めさせるのである。
この「罪の解決は不可能であって、我々はその資格なしにただ赦してもらう以外にない」との十字架命題は、この命題自体の正しさを直接確認できるかが問われるのではない。
科学理論や現代解釈学における仮定がそうであるように、これを前提することでそれまでよりも的確であるような何らかの理解へと至らせるかどうかということ、ここでは、自己と罪、そして神と救いについて、人をかつてに勝る理解へと至らせるかどうかが重要なのである。詳細は「信仰と理性論」の部でみるが、宗教などの後件肯定式の思惟では、その系全体の有効性が仮定の正しさに対する評価となるからである。
十字架命題において我々は、生まれながらに抱いてきた、あるいは成長の過程で自然に獲得してきたのであるような考えの延長にあるのではない罪と救いの理解に導かれる。そしてキリスト教が与えるその理解は、自分の考えよりも「残念ながら」正しく、それによって我々は悔い改めへと導かれるのである。
この十字架命題の形式は、既存理解とは異なる考えを知ることで、未知であった真理に目が開かれていくということであり、このような信仰成立原理を「未知真理覚醒型」と呼ぶことができる。
既知と思われていたものに対する新しい見方が与えられて古い考えが破棄されるとき、その契機となった命題を新たな真理として受け取る。これが十字架命題の形式である。
そしてこの形式のキリスト教命題では、新たな理解によって認識が正しく深められたことについての確信が生まれ、それが信仰を形成する力として働く。古い認識は捨てられて、信仰とともに新しい認識への移行が行われるのである。パウロの次のことばが思い起こされる。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5.17)
なお上のような、十字架義認教義の「法廷」的理解は歴代の義認説
キリスト教教義の中のあるものは、単に信じられるべきものというのではなく、信仰を生じさせる働きをもっている。そのような教義をこの論考で「キリスト教命題」と呼んだが、このキリスト教命題によって獲得された信仰には、上の形成経緯により「確信」が伴うのである。このためキリスト教命題は、先のConsideration節に述べた、宗教事象に関する「余計」な解釈を「必然」に変えるものであるといえる。
この信仰における確信と必然が、イエスの弟子たちの福音書時代と使徒行伝時代を分けるものであって、信仰が持つ「普遍性」として理解されてきたものの少なくとも一つはこれであるということもここで結論しておきたい。
また、これら復活や十字架の解釈から与えられる確信は、史実認識の可否による信仰の学問依存を免れている面があり、このことが十字架という歴史上の一出来事に端を発する事実依拠的であるキリスト教信仰に、普遍性という別の性質を与えているのである。
信仰成立過程の観点からは次のことがいえる。信仰の始まりにおけるご利益的・自然発生的であるようなイエスの超自然性に対する素朴信仰についてはここでは論外とするとして、使徒的信仰は、復活あるいは十字架に関するキリスト教命題を受容した時点から始まる。
イエスの復活を「神がその是認のゆえにイエスをよみがえらせた」とみることは旧約聖書の神概念を含むためにすでに信仰である。「われわれの罪はただ赦してもらう以外にない」と認めることも、やはり罪の解決に神が関わることが前提されているので信仰である。こうしてまず、復活や十字架のできごとに対する教義的解釈を受け入れることが使徒的信仰の始まりであるということがいえる。
しかし先に見てきた通り、ペテロの信仰は「神がイエスをよみがえらせた」とする復活解釈の受容で終わるのではなく、復活命題の受容は生前のイエスに対するかつての心証を回復させ、それが彼を宣教へと立たせている。
つまり、使徒的信仰成立の全過程は、復活解釈の受容から始まり、その解釈がもたらす効果と行動において完了しているというのが正確である。使徒的信仰とは、教義の受容に終始するものではなく、我々に既知真理の回復や、未知真理への覚醒といった作用を与えることにおいて完成するものと理解されなければならない。
ある教義の受容が信仰者に何ももたらさない場合、その教義は信じる内容を無駄に広げるだけであり、信仰者を新しくさせるものではない。いろいろな天上的教義を受け入れて、ときに困難であるような諸教義すべてを本当のこととして、それに従い続けることを信心の本懐とするような信仰とキリスト教信仰はこの点で異なっている。
キリスト教命題が認知的な作用を伴うとき、この信仰はどのような人にもある種の思慮深さや、ときに優れた思考態度を備えさせる。キリスト教が多くの芸術文化の担い手となってきたのもこの効果によるといえるかもしれない。
第二次世界大戦後の日本の敗戦処理においては、日本がキリスト教国ではなかったために厳しい措置を免れたという話もある。キリスト教を知る「大人の国家」であるドイツには国家分割という厳しい措置が執られたが、日本は民が未熟である国として寛容に扱われたのである。確かに、キリスト教の価値観に触れることなく成人となった日本人がよいとしている信念や文化に接するとき、この国をなお未熟な国家として感じることはしばしばである。
坂口安吾は、アメリカの統治を受けた敗戦後の日本について「米国による占領政策は概ね正しいように見え、日本は占領されて幸福になるという奇妙な体験をしたものだ」と述べたとのことである。民主主義という思想を知らなかった日本は、国の外から与えられて初めてそれを知った。それは我々自身、「救い」についての真の理解を、自分の中からではなく聖書によって初めて知るのであることとよく似ている。
さて、復活命題、十字架命題という二つのキリスト教命題を見てきたが、これ以外に、信仰を与える効果を持つ教義、すなわち「キリスト教命題」は存在しないのだろうか。以下に、私が考察したものをいくつか挙げておきたい。しかしながらカントによれば、ある原則を築いた後、その下に当該事象を一つずつ拾い出す作業というのは「仕事というよりは娯楽」である。