第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 3 使徒的信仰の成立 (9)

Proposition 3 キリスト教命題3 宗教性B

実存主義の祖と呼ばれるキルケゴールの哲学は「主体性こそ真理である」[1] を基本主張とする主体性重視の哲学である。

たとえ客観的な真理というものが存在したとしても、それが私にとっての真理でなければ意味をなさない。「客観的内容が真理であることもこれを口にする人しだいで非真理になる」[2] のである。信じる対象も重要だが、それとの関係性がもっと重要というわけだ。

このようなキルケゴールの主張は、一つには思弁的なヘーゲル哲学へ向けられたものであり、いま一つには、当時のヨーロッパ社会のキリスト教教会の信仰的腐敗に向けられたものであった。客観的真理とされるキリスト教教義は、どのようにして自分自身の真理として受けとることができるのか。これが彼の哲学の課題だったのである。

キルケゴールは『人生行路の諸段階』の中で、人生を「審美的」「倫理的」「宗教的」の三段階に分けるが、そこで人生の最終的な段階として述べられた「宗教的人生」は、後に、主著『哲学的断片への非学問的あとがき』において「宗教性A」「宗教性B」に分けられる。

好ましいものを求めようとする生まれながらの審美的性向は、やがて、その自己を弁証法的に否定しつつここで「弁証法的に」というのはソクラテス的な意味ではなくヘーゲル的意味、すなわち他者との対話においてではなく自身の思考の中で克己的にということである倫理的性向へと進み、最終的には、倫理性を求める自己の限界を知ることにより、絶対者を人生の基礎とする宗教的あり方に行き着くことになる。

ここで、絶対者を自己の内に求める場合が「宗教性A」、自己の外に求める場合が「宗教性B」であり、キリスト教は「宗教性B」において成立する宗教であるとされている。

またこれら二つの宗教性は、倫理的段階から二つに分かれて生じるというのではなく、段階的に、まず「宗教性A」に進み、そこで真理を求めようとするその自分に真理がないという弁証法的矛盾の認識を経て「宗教性B」に到達するとされる。

すなわち、この最終段階では「主体性こそ真理である」という当初の旗は降ろされて、代わって「主体性は虚偽である」[3] という新たな実存主義の旗が掲げられるのである。

このように、キルケゴールのキリスト教理解は、人間の外に真理を置くというキリスト教の性質を適切に捉えたものといえるが、しかしその著作を注意深く読むと、彼の主体性否定の理解は、あくまでも、信じるに足るものが自分の側にはないことをいうものであって、次にそれを自分の外に求めようとする、その際の「主体的情熱」は最後まで維持されていることが分かる。

つまりキルケゴールの「宗教性B」という概念は、実存主義における主体性そのものに対して弁証法的展開を見せるものではなく、最初に掲げられた主体性重視の否定にまで至ろうとするものではないと理解されるのである。

私はもし、キルケゴールの哲学がその名の通りの実存哲学であるならば、ちょうど、1960年代から70年代にかけて左翼運動に身を投じた学生たちが、やがて自らの批判する国家体制のその中枢機構たる大学に籍を置くことを自己批判せざるをえなかったのであるように、いや、そんな左翼思考以前に、そもそも「まず大学に行ってから悩む」というそのいい加減さが耐え難かったのであるように最終的には主体的情熱や主体的決断という主体性原理そのものの身分が問われなければならなかったはずであると思う。

というのも、彼が受け継ぐヘーゲル弁証法とは、単なる論理上の正―反―合の弁証ではなく、これら相反する理念を一人の人間が同時に抱え込み、その矛盾の中から苦しみつつ解決を見いだすところに成立する三者運動であるからだ。

しかしキルケゴールの最終的な見地である「宗教性B」においても、この主体的情熱が自己否定的に問われることはなかった。それは、キルケゴールにおいては、そういった主体的意志こそが信仰への力であり、それを捨てては信仰の成立するよすががないと考えられていたということであるのかもしれない。

その点はさておき、彼が捉えようとしてしかし届かなかった(と私は思う)「宗教性B」という理念は聖書中の人物に見いだすことができる。そこでは非主体性こそ信仰に近づく道であることが教えられるのである。

ルカ福音書10章に、エルサレム途上のイエスを、マルタ姉妹がもてなすという場面がある。妹マリヤはその時イエスの足もとに座ってそのことばに耳を傾けていた。立ち働いていたマルタは二人にいらだって訴えるのだったが、イエスはマルタに「マリヤはよい方を選んだ」と答える。

このときのマリヤについて教会が与える解釈は、何をおいてもイエスの言葉を聞くことを優先させたマリヤの熱心さというようなもので、私もそのように聞いた。つまり「主体性は真理である」という「宗教性A」をマリヤにみようとするものである。解釈に絶対的な正しさや誤りはないので、もちろんこの解釈も可能だが、私はマリヤに「宗教性B」をみるのが適切であると思う。

イエスの語ることに聞き入っていたマリヤは、常に信仰を第一にして行動する姿勢を貫いていたために、この時もイエスをもてなすなどという雑事を放り出して彼の話に聞き入り、そのことがイエスにほめられたというのではなかったように思われる。

そうだとすると、そのようなマリヤの姿というのは、実存的観点からは、自分にとって大切と考えていることを第一とするという点でマルタとそれほど変わるところがないからである。また、マリヤに意志の強さをみようとする解釈は、ルカが伝える「主の足もとに座るマリヤ」という絵画的情景にいかにも似つかわしくないではないか。

マリヤがイエスをもてなすことをせずただ彼の足もとに座っていたのは、彼女の信仰的情熱のなせるわざなのではなく、自分が何もなしえない存在、むしろイエスに何かをしてもらわなければならない存在と感じていたという、彼女のよるべなき自己理解によっていたとみるのが自然である。

よるべなさ、頼りなさ、与えることへの自信のなさは、満たされることを求めている実存であり、信仰の契機となりえる。ここでは主体的であるようなマルタ的実存は信仰へと至らない道であって、主体性は虚偽であり非主体性こそ真理なのである。