第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 3 使徒的信仰の成立 (10)

Proposition 4 キリスト教命題4 反復

「反復」は、かつて半世紀以上前に「愛」という概念がそうであったのと同じく、現在ではすでに多くの人が世俗的に語るところとなった概念だが、これを「発見されなくてはならぬ新しい範疇」[1] として明確に取りだしたのはキルケゴールである。彼はこれを旧約聖書ヨブ記に遡らせている。

キルケゴールは著書『反復』の中で、彼自身の恋愛と、おそらくは彼が背負った肉体的困難をヨブの苦難に重ね合わせ、ヨブの経験にその意味を求める。

「ヨブは人類の前線においてこらしめをうけました主とヨブは互いに諒解し合いました、彼等は和解しました、『主の親愛(したしみ)、ありし日のごとく再びヨブの幕屋の上にあり。』…ヨブは嘉納(うけいれ)られ、すべてのものを二倍にして貰いました。これを人は反復と名づけるのです。」[2]

かつての幸福を再び繰り返すことが「反復」である。ただし、以前のものが取り戻されるだけでは「反復」ではない。いわれなき苦難の中でヨブは神と論争し、己れを知る者となったが、その彼にとって、再び与えられた幸福がかつてと同じであることはなかった。

ルカ福音書17章に「らい病を患っている十人」の記事がある。彼らはイエスの一行が通りかかるのを見て遠くから癒しを請う。イエスは十人の重い病気を癒すが、その後、一人のサマリヤ人だけがイエスの元に来て感謝を申し述べた。イエスは「十人いやされたはずではないか。神をあがめる者は他にいないのか」と嘆く。

聖書の話はこれで終わるのだが、私は後日譚を想像する。

病気が治った彼らは、隔離されていた村からめいめいの郷里へと戻っていく。ある者は家族のもとへ、別の者は以前の職場に戻ったのである。そして、彼らは以前の生活を再び始める。

九人は折に触れて病気のことを思い起こし「自分は運良く助かったが、まったくとんだ災難だった」と周囲に語る。彼らにとって病気は不運、不幸という以上のものではなかった。彼らはかつての生活を繰り返したが、そこに「反復」はなかった。

イエスに感謝を述べた一人も元の生活に戻っていた。彼の回りには以前と同じ人々がいて同じ景色が彼を取り囲んでいる。しかし彼はその生活を以前とは違うもののように感じている。

彼は自分の身に起きたことを振り返り、それが突然の不幸であり、また自分の力によるのではない突然の回復であったことを考える。彼は悪事を持つものではなかったがヨブと同じように悔い改めた。それは彼が畏れを知る人となったためである。こうして彼はかつての生活を新たな生活において「反復」したのである。

キルケゴールは「反復」を「未来への追憶」であるとする。追憶とは過去を想うものであるから、「反復」とは過去の事柄を未来に向けて今一度想いみることということになるだろうか。また彼は「期待」と「追憶」に比べながら「反復」を次のよう述べている。

「期待は新調の衣服、追憶は脱ぎ捨てられた衣服、反復は着古されることのない着物。期待は追う手をすり抜けてゆく可愛い娘である。追憶は今ではどうにも間に合わぬ美しい老婦人である。反復はいつまでもあくことのない愛妻である。」[3]

反復は期待に似ているが、期待はいまだ経験していないことを求めるものなので新調の服のように体に合わないことがある。またそれは飽きて古びる。反復は経験済みのことだから、それが自分の身の丈に合っていることも確かである。同じ服を再び着ることに新鮮さはないが、しかし古さの中に新しさを見ること、これが反復の本質でもある。ただしこの反復は絶望を通じて獲得されなければならない。

ヨブは苦難の中で神と己れの関係を知り、イエスに感謝を述べたサマリヤ人は人生の厳粛を知った。彼らはこの時、世界と自己を解釈し直さざるをえなかったのである。この再解釈が信仰となる。ペテロもまた信仰の挫折から「復活命題」によって新たな信仰を得、かつての弟子時代の信仰を反復したのである。彼らは「反復」によって以前のもの以上のものを受けることになった。

キルケゴールは「全人生は反復である」とも述べている。[4] これは、人生の全ては二度目の歩みに他ならないということなのだろうか。それとも、全人生は未来を想い見ることだという意味なのだろうか。

前者の場合、では最初の歩みはいつのことなのかということが問題となる。するとそれは、キルケゴールが「反復」概念のヒントを得たプラトンの「想起(追憶)と同じ意味のものとなってしまうだろう。この人生は、かつてイデア界で経験したことを反復するのだということである。しかしそれではこの概念が新たに立てられた意味を確保できないだろう。

もし人が生涯解決しえない苦難を負っているなら、人生の中での「反復」を願うことは叶わないのかもしれない。しかしキルケゴールは「真の反復である永遠」と述べ、人生の外に「反復」の完成を見ている。[5]「全人生は反復である」とはこの意味に理解されるのがよい。すなわち「全人生は永遠においてなされる反復への過程である」ということである。解決しえない苦難を背負ったキルケゴール自身、自分の生をそのように理解したのだと思う。