第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 3 使徒的信仰の成立 (12)

Ricercare キリスト教命題の役割と残された課題

〈信仰の二段階形成〉

前節までに述べたキリスト教命題1~5は、イエスに対する「自然発生的信仰」に何が加わって「確信的信仰」に至ったのかというその経緯を説明し、両者をつなぐものである。これらのキリスト教命題には共通して、その前段階を克服するある種の「二重性」が認められる。

宗教性Bにおいては宗教性Aとの二重性、反復はその字義通りの二重性、讃美は感謝に対する二重性である。復活命題は、イエスがキリストであるとの弟子たちの予期的信仰に対する二重性であり、十字架命題は、律法の履行による免罪という旧約的あり方に対する二重性である。いずれも、キリスト教命題が、その前段階のあり方の超克であるところに信仰の確信を形成する働きを持つ。

これらのキリスト教命題により、キリスト教信仰は、イエスを知ることから生じる素朴な信仰と、その信仰を正しいと確信するに至るまでの二段階を持ち、教義的にいえば「義認」と「義認の確信(Ⅰテサロニケ1.5)からなっている。

この二段階と、ホーリネス系教会が教える「義認」と「きよめ」、あるいはカリスマ系教会が教える「義認」と「聖霊のバプテスマ」という、「義認」と「聖化」の二段階教義との関係は不明だが、これらの教義が、本来「義認の確信」であるところのものを一部、「きよめ」や「聖霊のバプテスマ」として扱ってきた可能性は考えられる。

実践的な観点からみると、福音書時代の弟子たちの信仰は、特に、クリスチャン家庭に育つ子供や、教会学校で「イエスさま」の話を聞く子供が持つ信仰に比べられる。

幼い時から教会に関わりを持つ子供たちも、理想をいえば初代の弟子たちと同じように、二段階の過程を経て信仰が確立されることが願われる。そうでない場合、子供は「信仰の決心」を繰り返し、教会学校での「何となく信じている」状態から抜け出すことなく青年期を迎え、その状態が逆に負担となることがあるからである。

重要なのは自然発生的な信仰状態から信仰の確信へと導くことで、それは教会の役割である。教会は信仰心を抱いている子供が次の段階で何を必要としているかを理解していなければならない。キリスト教命題はその状況において知らされるべきものである。

一方、教会学校は福音書時代の弟子たちがそうであったように、子供たちがひたすら神とイエスを体験的に知ることができるようにすることがその主だった働きである。教会学校の主要な役割は、信仰を与えることであるよりも、信仰の対象を与えることである。

教会学校は教会なのか学校なのかという議論があるが、この理解に立つと、子供たちがある一定の年齢に達するまでは、教会学校は基本的には教会科目を含む学校であってよいということになるだろう。教師はイエスのわざと教えを伝え、愛と指導性を体現することでイエスを伝えるのである。

〈課題の確認〉

さて、この「信仰論」Chapter 3では「史実と信仰」の3つの問題のうち、

3.たとえイエスが目の前にいたとしても彼を信じることは難しい

についてその困難を解いた。キリスト教命題による確信がイエスの「隔絶性」を克服するのである。また、

2.イエスの獲得を史実研究に委ねると信仰の性質が損なわれる

についても、その一部を解明したとすることができる。キリスト教命題がもたらす信仰における必然という性質は、一世紀のイエスの十字架刑という、歴史の一事象に基づいた事実依拠的・偶然的側面を持つキリスト教信仰に、普遍・不変の性質を与えている。

ただしキリスト教信仰が持つ「普遍」の性質のすべてをキリスト教命題に帰すことはできない。キリスト教命題が与える信仰の確信は各個人における主観的性質のものだが、キリスト教信仰には超越性、神秘性、絶対性に由来する、主観を超えた普遍が含まれていると考えられるからである。これがどのように可能となっているのかが示されなければならない。さらに、

1.信仰に必要であるイエスの正確な史実が与えられていない

という第一の課題についてはこれまでのところまったく触れられていない。これらが解かれるべき課題として残されており、次章以降の主題である。またこの際には、上記2.のイエスについての学問的知識と信仰という問題が必然的に発生する。当章 Summary に記した第4の課題については当節末段〈史実と信仰〉を参照。)

〈論述順序に関する注〉

次章へ移る前に、このChapter 3での論述設定に関して以下を補足しておきたい。

Chapter 3では、弟子たちの間にイエスへの自然発生的かつ神的である信仰が生じているものとして、その後の使徒の信仰の変化を論じてきた。

彼らがイエスの十字架刑以前に信仰を抱いていたことは、イエスが「あなたの信仰がなくならないように祈った」(ルカ22.32)とペテロに語っているところからも明らかであるが、その信仰はイエスの奇跡の存在に大きく依存したものであるといえる。すなわち、ここChapter 3での論考は、イエスの奇跡が福音書に書かれている通りに行われたことが前提されている。

この点に疑問を持たれる諸氏がいるはずである。あるいはそれら諸氏においては、「保守派の神学とはそんなものだ」ということで、イエスの奇跡を前提することについてはここまで寛容に処されてきたのであるのかもしれない。

当論考では、奇跡などの超越的事象の生起可能性を「信仰と理性論」の部で扱い、また、そのような超越的事象をイエスが行っていたとすることの合理的な根拠を次章Chapter 4でみるが、いずれにせよそれが扱われる前の段階で、これらが肯定的に結論されている体での論になっていることで、当Chapter 3の論考にはすべて疑問符が付くというのが正直な感想であるということであるだろう。

同じことは「イエスの史実の獲得」についてもいいうる。

「史実と信仰」問題の第一課題である「信仰に必要であるイエスの正確な史実が与えられていない」という信仰対象の獲得問題が解決する以前に、イエスがあたかも目の前にあるかのごとく、一世紀人の目線で使徒的信仰の確立を論ずることはやはり不適切ということである。

これらの感じ方は自然なものであり、私自身、以前(2009~2010年)に発表した論考では、まず超越的事象の生起可能性を論じ、続いて史的イエスの獲得を論じたのちに、ようやく使徒的信仰を論ずる場にたどりつくという展開を行った。

当時は、毎月一度の論考配布という制約があることから、順序立てて論じていかなければ使徒の信仰形成を扱う場を確保できないと考えたからであったが、今回の公開WEBでは、そのような論述順序にこだわる必要はないと考えている。

早い話が、上のように感じる人は、このChapter 3の前にそれらを扱ったものを先に読んでいただければよいということである。必要であることは信仰対象の獲得という「過去性」、奇跡の存在という「超越性」、そして信仰の困難という「隔絶性」のいずれをも解決することであって、その提示順は無関係である。

Chapter 3では、隔絶性の問題が超越性と過去性の解決を前提に解かれた。次にもし、過去性あるいは超越性の問題が隔絶性の問題の解決に依存して解かれるなら循環論となるが、そうでないなら問題はない。この論考では過去性の問題も、超越性の問題も別に扱われ、それらは独立して解かれる。

むしろ当章で扱った隔絶性の問題においては、超越性と過去性の問題が解決しているという前提に立つことで、この「隔絶性」という問題の何であるかが明瞭にされ都合がよいのである。

これによりブルトマンがそうであったように、この問題を、「史実によって得られる信仰から史実によっては得られない信仰への変化」という「超越性」がらみの問題と見間違えたり、史的イエス獲得における「過去性」の困難と混同したり、信仰の困難というより一般的であるような問題にすり替えた上で、それに見合う聖霊主義や、人格主義的な答を用意して解決とするといった迷い込みの可能性がなくなるのである。

超越性や過去性の問題が一切存在しない中においても、すなわち使徒の置かれた環境が福音書に伝えられている通りの理想的なものであってイエスによる奇跡が行われており、そしてやはり福音書が伝えている通り、イエスに対する神的信仰が使徒にすでに成立していたとしても、現在に伝えられている使徒の信仰にはなお理解困難な部分が残されているとする、問題の所在を浮き立たせるこの設定が重要なのである。

〈信仰モデル〉

キリスト教信仰についての最終的な見解は、次章Chapter 4の最終節に「信仰モデル」として掲示するが、ここでは当章で扱った信仰観をまとめておこう。

史実は信仰を与える」という見方に立つ時の史実と信仰問題

史実のイエスがどうであったかによって信仰の成否が決まるとみて、歴史のイエスの真実を探ろうとする。

史実は信仰を与えない」という見方に立つ時の史実と信仰問題

史実のイエスが与える信仰を「自然発生的な信仰」とみて、後の使徒の信仰との質的差異を重視し、後に確立される使徒の信仰(ブルトマンでは「イエスを神的とみるキリスト信仰」当論考では「イエスに対する確信を伴う使徒的信仰」がキリスト教信仰の十全な状態であるとみる。史的イエスの探求そのものよりも、史的イエスと使徒の信仰成立の関係を探ろうとする。この下にブルトマンと当論考の立場がある。

  ■ブルトマン的実存型

福音書のイエスの記事は事実ではなく、したがって史実のイエスは神的ではなく、使徒の当初の信仰もそれに見合ったものでしかなかったが、後に現在のようなキリスト信仰となった。その変化を使徒の実存的決断にあるとみてこれを重視し、史的イエスの探求には比重を置かない。
使徒のキリスト信仰は、実際のイエスの史実からは乖離したものとして生じたと見るので、その信仰はイエスの史実からの必然的な動機を持つものとしてではなく、逆に、史実から自由となる使徒の主体性において獲得されたものとして理解される。したがって「史実は信仰を与えない」という立場が徹底される。

  ■キリスト教命題型(当論考)

史実のイエスは福音書の記事通り神的であり、使徒の信仰もそれに見合うものとなっていたが、イエスの死により自然発生的な彼らのキリスト信仰は潰えた。その状態から使徒的信仰が形成される過程をキリスト教信仰成立の鍵とみる。こちらは史的イエスがたとえ福音書の通り、信仰成立にとって最も有利な状態であったとしてもそれだけでは使徒的信仰は成立しないと見ることから、史的イエスの探求を重視しない。むしろ、福音書のイエス通りのイエスであったとしても使徒的信仰の成立にはなお謎が残るとし、使徒における自然発生的なキリスト信仰から使徒的信仰への移行の解明に重点を置く。
使徒的信仰はイエスの史実から直接得られたのではなく、イエスの史実についての解釈から得られたと見る。この意味で「史実は信仰を与えない」という理解を支持する。
しかし福音書でのイエスの史実が、使徒的信仰の前段階としての自然発生的信仰を生じさせるという点において「史実は信仰を与える」という理解を支持する。
つまり、キリスト教命題型信仰モデルでの「史実は信仰を与えない」とは、イエスの史実は必要であり、しかしそのイエスの史実からだけで使徒的信仰が生じるのではないという意味である。

「イエスの教えと使徒のケリュグマの差」、「福音書時代の使徒の信仰と使徒行伝以後の使徒の信仰の差」、「福音書に描かれた使徒の信仰と使徒行伝に描かれた使徒の信仰の差」という、三つの差についての見方

  ■ブルトマン的実存型

ブルトマン的実存型および現代主流派神学の主だった見解では、福音書に描かれた時代に実際に起きていたことは、福音書から、イエスの奇跡とそれに伴う人々の反応を取り除いたものとして考えられている。したがって「福音書時代の使徒の信仰と使徒行伝以後の使徒の信仰の差」と「福音書に描かれた使徒の信仰と使徒行伝に描かれた使徒の信仰の差」は別の事柄と見なされる。「使徒行伝以後の使徒の信仰」と「使徒行伝に描かれた使徒の信仰」に違いはないが、「福音書時代の使徒の信仰」と「福音書に描かれた使徒の信仰」は違うと考えるためである。
新しい教えを垂れるイエスとそれに聞き従う人々がおり、その後、イエスを失った人々はイエスを神格化してキリスト信仰が生じた。その成果物が現在に伝えられている福音書であり、それゆえ福音書には本当には存在しなかった奇跡などのイエスの神的行為が記されているとされる。

この見方では、福音書はキリスト信仰の産物であるから、神的なわざを行うイエスとともに、それに呼応する弟子たちもまたキリスト信仰を得たものとして記されていることになる。確かに、福音書にはマルコ8章でのペテロの告白のように、使徒のキリスト信仰が見られる。つまり福音書に描かれた使徒らは、実際の福音書時代の姿とは異なり、ある種の信仰の完成を得たものとして描かれたということである。

しかしそうすると、「福音書に描かれた使徒の信仰」と「使徒行伝に描かれた使徒の信仰」には差がないということが帰結する。福音書での使徒は、すでに信仰を完成させているからである。

つまり、この見方は「イエスの教えと使徒のケリュグマの差」を説明し(イエスの教えは教師的なものにすぎなかったが、使徒のケリュグマはイエスを神格化したキリストを宣べ伝えているとして)、また彼らが想定する「福音書時代の使徒の信仰と使徒行伝以後の使徒の信仰の差」についても説明するが(生前のイエスが活躍した福音書時代の使徒はイエスを宗教的教師として尊敬するのみだったが、後にそれを神格化したとして)、「福音書に描かれた使徒の信仰と使徒行伝に描かれた使徒の信仰の差」については「無し」とするものである。

だがこれは、主流派神学の源流ともいえるChapter 2 - Easy Study 3に触れたライマールス以来の見方(福音書に記された使徒の信仰と、使徒行伝に記された使徒の信仰には落差があるという見方)を自ら否定していることになる。この帰結を招く点で、ブルトマン的実存型信仰モデルは自己矛盾的なのである。

  ■キリスト教命題型(当論考)

キリスト教命題型信仰モデルでは、自然発生的信仰と使徒的信仰が「イエスの教えと使徒のケリュグマの差」にそれぞれ対応したもの(自然発生的信仰はイエスの教えと奇跡への応答、ケリュグマは使徒的信仰の証し)であることにより、この差を「教えと証し」として説明し、同時に、この使徒の信仰の二段階であること自体が「福音書時代の使徒の信仰と使徒行伝以後の使徒の信仰の差」を説明する。

また、このモデルでは「福音書時代の使徒の信仰」と「福音書に描かれた使徒の信仰」を区別しないので、つまり福音書は大方、福音書時代の使徒の状態を正しく伝えており、しかしその状態は信仰の完成ではないとみるため、「福音書に記された使徒の信仰と、使徒行伝に記された使徒の信仰には落差がある」というライマールス以来の見方についても保たれる。

福音書時代の使徒の信仰は福音書に描かれている通りであり、そこにはペテロによるキリスト信仰も含まれているが、それは後に潰える信仰でもあって、信仰の完成ではない。それゆえ使徒行伝に見られる使徒的信仰とは落差があるということである。

当論考における「史実は信仰を与えない」という立場は「史実は信仰を与える」とする立場と同じく、信仰の成立にイエスの史実を必要とすると考える。ただ、一世紀の弟子たち自身がそうであったように、我々もまた、イエスの史実だけでは使徒的信仰は得られないとみるのである。使徒的信仰の成立のためにはイエスの史実の他に、当章Argument以下に「キリスト教命題」として示したような、何らかの信仰成立原理が必要である。

〈史実と信仰〉

しかしそもそもなぜイエスの史実が必要なのだろうか。「史実は信仰を与える」とする立場ではその立場自体が答えとなっているが、「史実は信仰を与えない」という立場では答えは別に用意されなければならない。

Summary に論点(4)として記したこの問いについては、当章での考察により答えることは難しいことではなくなっている。イエスの史実が必要である第一の理由は、これまでに見てきた通り、それによって使徒的信仰の前段階としての自然発生的信仰がまず得られなければならないからである。イエスへの尊敬や驚きといったものなしに、いきなり使徒的信仰を得るということはおそらくキリスト教信仰の道筋ではない。

そして第二の理由は次のものである。

かつて新正統主義神学の一部はイエスの史実なしに、イエスの「意義」だけで信仰が可能であると考えようとした。M.ケーラーも、イエスその人ではなくイエスに対する使徒の信仰こそが我々の信仰の源泉だと主張した。

しかし正統性の概念に照らして、この信仰理解は誤っている。世界の事実に結びつかない信念は、事実依拠的である正統キリスト教の信仰になれないからである。イエスの教説もまた、人が事実と切り離された信念に生きるものではないことを教えている。我々に信仰が可能であるためには、我々はイエスの事実に基づかなければならない。

しかしながら、正統性によるこのイエスの史実の必要の訴えは、当論考にとってはすでに退屈なものである。Chapter 1 - Essay 4に見たが、「キリスト教の正統信仰とはそういうものではない」というブルースの説明は、確かにキリスト教信仰がイエスの史実を必要とするものであることの論拠の一つではあるが、当論考はそれを最重要の答えとは考えない。正統性によるこの答えは、キリスト教信仰にイエスの史実が必要であることへの疑問に対する門前払いであり、その問いの本質に踏み入って答えたものではないからである。

信仰の正統性を論拠とするこの回答では、そもそもなぜ信仰が正統でなければならないのかということまでを含めた意味での、イエスの史実が必要である理由は答えられていない。たとえ正統主義から外れ、聖書の史実性を重要視しない信仰であっても、ともかくイエスをキリストと信ずる信仰であるならそれでよいのではないかとする啓蒙主義的な主張への答えにはなっていないのである。

そこで第三の理由は以下であり、これが当論考が導くイエスの史実が必要であることの、そして信仰が正統信仰でなければならないことの根本的な理由である。

当章で明らかになったとおり、使徒的信仰はイエスの復活と十字架刑についての特定の解釈の発見から生じた。それゆえイエスの史実は重要なのである。なぜならその事実がないなら解釈もないからだ。このところで「史実」と「信仰」は結びつくのである。そしてこれらが結びついた事実依拠的信仰は正統主義にのみ認められるものである。

したがって、現代に信仰が可能であるためにはこれらの解釈のもととなった出来事は正確に伝えられていなければならない。解釈は後件肯定式推論[1] であるから、その解釈の必然性を了解するためには、最低限、後件の肯定、すなわちこの場合、福音書に記されたイエスの出来事が事実であることの認定が行える必要があるのである。

ただしこの時、イエスの史実が隅々まで正確に知られなければならないということなのではない。イエスの十字架刑と復活に対する使徒らの解釈の有効性が保たれる程度に、それが事実であることの確認が求められているということである。この次第を次章に述べてみよう。