第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (8)

Easy Study 4 解釈学整合説の応用2の2 後件肯定式推論2

学問の歴史においては古い学問が再建されるということがある。カントはアリストテレス論理学について「それ自体としてすでに自足完了している観がある」BVIII)と述べたが、ラッセルによれば、カントがそのように記す百年以前に、ライプニッツが「三段論法の説がある点で誤っていることの証拠を幾つも発見し続けた」とのことである。[1] この経緯をへてG.フレーゲとB.ラッセルにより現代論理学の標準である「古典述語論理」が築かれることになる。

キリスト教の非常に古い学問である「聖書解釈学」も20世紀に再建された学問である。聖書は様々な文学様式を含み、また全体が膨大であり多くの解釈が可能であるために、教会は適切な教義を引き出すための聖書の読み方についての研究を古くから行ってきた。聖書解釈学では解釈者がとるべき原則、すなわち聖書テキストに適用する読解方法そのものが学問の対象となっていたのである。

その結果、字義的解釈、比喩的解釈、霊的解釈といった多くの解釈法が生みだされ、それらのあるものは逆に不適切な解釈の供給源ともなったが、これらの解釈法に潜在する方法設定の自由さが、テキストに対する新たな地平を開くものとして理解されるようになり、これが現代哲学の「解釈学」という分野を形成する契機となったのである。20世紀の科学理論が「仮定の有効性」を広く知らしめたことも、解釈学の再興に寄与したといえる。

「解釈」はキリスト教信仰の核心というべき重要な概念である。「解釈」の厳密な定義について、現代哲学はなお探求途上にあり、ここで簡潔に示すことは難しいと思われるが、以下にその基本的な理解を述べてみたい。解釈」と「説明」の違いについては Chapter 1 Section2 参照)

解釈の基本的なイメージは、解釈対象に背景を設定することというのが適当である。丸くて赤いものがあるとき、単にそれだけではそれが何であるのかは決定できない。しかしその回りに例えば、オリオン座の星々を置けば、その赤い広がりは、視直径を観測しうる唯一の太陽系外恒星である「ベテルギュース」ということになる。

背景を山々の遠景とすれば「夕陽」であり、皿の場合は「梅干し」といった具合である。特定の図形が与えられて、それを利用したイラストを描くゲームがあるが、その場合「◎」は鳥の目になったり、あるいは他の何ものにでもなり得る。

このように、対象は背景が与えられることで異なったものになるわけだが、解釈学は、この背景を任意に設定したり、適宜取り換えてみることで、対象についての新しい理解を引き出そうとする試みであるといえる。解釈対象に背景を与えることで、対象を背景との関連における「整合性」の中に引き入れ、それによって対象に新たな意味、すなわち世界との対応性を生じさせるということである。

現代の古典述語論理における「解釈」とは、Fx「xはFである」という命題関数(主語と述語のいずれかが変数や空欄になっている、命題に至っていない文の形)における述語F「○○である」の部分に具体的な述語を与え、変項xに個物を指定した上で、命題全体の議論領域を定めることとされる。[2]

たとえば、Fxを「xは1かそれより大きい数である」という命題関数とした場合、論理式∀xFx「すべてのxについて、xは1かそれより大きい数である」は、議論領域を自然数とした場合は真だが、0 が含まれる整数とした場合には偽となる。

ここでの「解釈」とは、意味が未定である命題関数に対して具体性を与えることであるが、それは、主語と述語の設定による命題関数の命題化、およびその命題の適用範囲の設定という二つのことを行うということである。そして上例のように、その範囲設定の仕方によって、解釈される命題は真となったり偽となったりするということが起こる。

イエスの十字架刑に対する理解の仕方は様々存在するが、解釈するとは、その中のある一つの理解を採択することにほかならない。そして、上の述語論理における解釈の定義が示すところによれば、その際、我々は「議論領域」というものを同時に定めていることになる。

すなわちイエスの十字架刑をユダヤ民衆の暴動に起因する歴史上の一事件と解釈するとき、その理解は、一世紀ユダヤにおける宗教的政治的背景を議論領域とし、その背景の中にイエスの十字架を置いたということである。

信仰においてイエスの十字架を人類の罪の贖いのわざとして解釈するとき、その解釈は、旧新約聖書における贖罪観のコンテキストの中にイエスの十字架を置いているということになるだろう。その場合、議論領域は聖書的世界観であるということになる。

そしてイエスの十字架を最も個人的に「私の罪の贖い」として受け取る信仰とは、イエスの十字架と「私」とを結びつけるような何らかのものが、十字架の背景として設定されたことを意味しているのである。

しかしながらすでに述べてきたように、一般に宗教的解釈、すなわち宗教教義は事象に対する「余計」な解釈であって(「信仰論」Chapter 3-Consideration)、事実説明としては本来不必要であるとみられる。

イエスという人物が一世紀のパレスチナに存在し、その人物がローマの監督下にユダヤ人によって処刑されたという事件は、処刑の原因となった「イエスの主張とユダヤ教の対立」という考察において説明としては完結するものである。この理解からすると、イエスの死に対するそれ以上の解釈、たとえば「贖罪の死」という教義的解釈は余計なものといわなければならない。

したがって、我々の信仰は、そのような「余計」とみられる宗教的解釈をあえて採用することの必然、すなわち理由を伴ったものでなければならない。それは解釈学的にいえば、イエスの十字架と自分を結びつける「背景」を見いだすこと、しかもそれを必然的なものとして見いだすことなのである。

さて、解釈学をアリストテレス的「詩学」に対抗するものとして捉えてみると、次のようになる。

旧来的な「詩学」が、文学テキストから受ける「感銘」などの効果を固定的に捉え、その効果の原因を、テキスト構成や作者の意図に探ろうとするのに対し、解釈学は、我々が受けるとするその効果自体の妥当性を問い、むしろその既成性を批判し、別の解釈をテキストにあてがうことによって、「感銘」といったものに限定されない効果の可能性を探る。

それにより解釈は、テキストの異なった「読み」に到達する試みとなる。現代解釈学における解釈とは、テキストに対するこういった脱構築的な様々な理解可能性の追求であるといわれる。[3]

この解釈学の試みは、文学テキストに対してだけではなく、哲学的解釈学として、世界や人間に対する新たな理解の試みとしても探求されている。現代解釈学の代表的哲学者であるポール・リクールは、解釈概念を次のように述べている。

「解釈とはテキストによって投企された世界内存在の様式を認識することである。」[4]

「解釈学は、解釈を読者の有限な了解能力に従わせるのではない。・・・解釈とは、それによって新しい存在様式新しい『生の形式』の発見が、主観に自己自身を認識する新しい能力を与える過程である、と言うであろう。」[5]

翻訳のゆえかいずれの記述も読みにくいが、前後の脈絡を踏まえて次のように読むことができる。

第1の引用において解釈とは、示されたフィクション的なテキスト世界によって可能性としてしか表現しえないでいるところの作者固有の現世界での在り方を、読み手が発見すること。

第2の引用において解釈とは、解釈によって発見された存在のあり方が、解釈者自身に覚醒を与える契機となるような循環である。

他者を理解する試みとしての解釈は、当然ながら、解釈する者の意識の制約を受ける。そのことは、優れた解釈とか凡庸な解釈といったことが、世界に対する解釈者自身の関係に根ざしているということであり、そこでの理解が深まれば解釈も深まるということになるだろう。

しかし、解釈とは、単にそのような解釈者の主観的あり方の限界の中の作業なのではなく、その解釈作業により、隠喩や詩的表現によって可能的に示されていた他者のあり方の革新性などが理解された場合には、そういった発見が解釈者と世界の関係を刷新する契機となって、さらなる解釈の可能性が開かれることになる。

つまり、ここには解釈者と解釈対象の解釈学的循環が存在するということである。このことは次の事態を説明するだろう。

新約時代において、生前のイエスに関心を持たなかった人々は、イエスの十字架刑の背景を政治的なものとすることで十分であった。そのコンテキストによってイエスの死はまったく整合的に理解されるからである。

しかし、イエスに深く関係した人々においては、そのような地上的コンテキストによっては、イエスの死を彼ら自身のうちに築かれていたイエスへの心証となじませることができなかったと考えられる。弟子たちに「神の子」「キリスト」を予感させたイエスは、その死が最低限、旧約的な贖罪観のコンテキストの中に置かれない限りは整合性を得られないものだったのである。

しかしさらに、この旧約的コンテキストもまた、現代の我々のようにイエスから時間的文化的に遠く隔たっている者にとっては、なお有効な背景設定とはなりえないものである。

おそらく我々にとっては、パウロによって新たに述べられた新約的な救済理解が十字架のコンテキストとして設定される必要があるだろう。そのような何らかの適切な背景が見い出されたときに、はじめて我々は、自分をイエスの十字架のもとに立つ者として理解するのである。それが信仰論 Chapter 3 に示した「キリスト教命題」であると私は考えている。

再確認すれば、解釈とは、ある事象に対して、その事象をそこへ整合的に配置することができるような何らかの背景を設定することにより、逆にその背景からその事象を理解し直す試みである。

そして、上に参照したポール・リクールやジョナサン・カラーらが述べるところによれば、解釈とは、対象に背景を設定することによる整合性の付与・獲得ということだけではなく新しい自己への覚醒でもある。

ここで解釈学は、本来の認識論にとどまらず、存在論的側面をみせるが、解釈とは、我々自身を刷新しうるような整合的理解の獲得であるというのが、現代的な解釈学が目ざしている方向であるとしてよいだろう。

さて、実在論が後件肯定式の論理であることを前段に述べたが、解釈学も同じく後件肯定式の思惟である。しかし両者は次の点で区別することが可能であると思われる。

実在論では(A⊃B)∧Bという後件肯定式において、仮定Aの確かさを主張することが任務であった。そのため、既述したように帰納法を援用して(A⊃C)∧C、(A⊃D)∧D ...というように、同一の仮定から異なる事象C、D...を演繹しては、その事象を現実世界の中に見つけ出して肯定することを繰り返すという方法がとられるのである。

これに対し解釈学では、同一事象に対して、自由に様々な前件を設定するということが行われる。すなわち(A⊃Q)∧Q、(B⊃Q)∧Q、(C⊃Q)∧Q というようにするのであるが、これは、聖書や文学テキストというものが固定されており、したがって後件を変えようがないことに関係したことである。これによってテキストは多様な解釈を受けることになるが、しかしその中に、新しいテキスト理解の可能性を見ようとするということである。

すなわち実在論では仮定の確かさを確認することが重要であり、解釈学ではテキストや世界という変えようのない事実に対する新たな理解の発見が眼目であるということである。