第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (9)

Easy Study 5 構成主義整合説の応用3

5-1 直観主義論理

これまで真理の整合説の応用として「古典的演繹」「実在論」「解釈学」をみてきたが、これらは世界の真理を究めることを目標に定めた大がかりな思考法といえる。確実な第一原理から出発するデカルトの演繹哲学、世界の成り立ちの根源を求める古代ギリシャの存在論、神のみこころを明らかにしようとする聖書解釈学とはそのようなものである。

しかし日常を考えてみると、そこでは特に確実な真理とか世界の究極といったことを問題にするのではなく、我々は、ただ自分が持つ知識の範囲内で日々の生活に対処し、知っている事柄については真偽の判断を行いつつも、知らないことについては判断を控える態度をとっている。

こういった日常的な思考は、世界のあらゆることに白黒の決着をつけようとするような先の三つの思考法とは性格が異なっていると感じられる。「古典的演繹」「実在論」「解釈学」などの探求的な思考と、通常の日常的な思考では何が違っているのだろうか。

仮に、ある事件に遭遇したときのことを想定してみる。我々がその事件に関与したかもしれないとされるある人物について事情を聞かれた場合、その人物について何らかのことを知っていればそれを話すだろうが、知らなければ「知らない」と言い、それ以上のことは何も言わずにすませるだろう。

この場合、先の探求的な思考法では「彼は犯人であるか犯人でないかのいずれかだ」と考えようとするのであるが、その際には背理法による仮定が導入される。すなわち、彼が犯人であると仮定した場合、犯行動機や状況を合理的に説明できるか、あるいは犯人ではないと主張する当人の供述に矛盾はないかなどを考察しようとする。

しかし、わざわざ仮定を立てるようなこういった推論は、事件の真相を究めようとする裁判官が行うような思考法であって、事件に関わりのない者が自然にとる態度ではない。その場に居合わせた者が証言するのは、ただ「知っていること」についてだけである。

このとき証言者は「自分は何を知っていて何を知らないのか」という自分の「知識」についての二者択一を行うのであって、「かの人物が犯人なのかそうではないのか」という「事実」を二者択一するのではない。

前段までにみた三つの探求的思惟においては「事実」が対象であり、その関心は事の「真偽」に向けられていた。

しかし証言者の思いは「事実」ではなく自分の「知識」に向かっている。自分が知りえていることについては当然それを重視するが、確実ではないことついては判断を保留する。それゆえ自分の知識が部分的なものにとどまることをよしとし、必ずしも最終的な真実にたどり着くことを第一とするというのではない態度になっている。

このような態度においては、物事は必ずしも真偽いずれかに定まるということはなく、自分が知らないことについては真偽未定となる。したがって証言者における「事実」に関する選択肢は「真または偽」ではなく、「真または偽または不明」という三択となる。このことが、先の探求的思惟と通常の日常的思惟の根本的な違いなのである。

判断が真/偽の二者択一となるか、真/偽の他にさらに選択肢をもつものとなるかの違いは、現代論理学の「古典論理」と「非古典論理」の違いに対応したものとみることができる。

「非古典論理」の一つである「三値論理」は、真理値として「真/偽/真偽未定」の3個を採用するものであり、これは上の証言者の立場を表すものとして適切であるだろう。

さて、裁判官と証言者の他に、事件に関わるもう一つの立場がある。それは刑事や弁護士だが、彼らは事件の渦中にあるかの人物が犯人であるかどうかを「証明」しようとする。

その人物と結びつく物証が出れば犯人であることの証明となり、逆にアリバイが確認されれば犯人ではないことの証明となる。これらの事態が確認できない場合、彼らの判断は「真偽未定」となり、やはり「古典論理」の真偽判断とは一線を画すものとなる。

ここでの刑事の立場は、「非古典論理」の代表格といえる「直観主義論理」の思考法を示している。この直観主義論理は三値論理のように三個の真理値を持つのではなく、古典論理と同じ「真/偽」二値を真理値とするものだが、犯人の白黒をつけられずにいる刑事のように、「真偽未定」を論理に取り入れた論理学である。

直観主義論理における「真偽未定」は、先の証言者における三値論理の「真偽未定」とは異なり、将来的にその真偽が証明される可能性を持つ真偽未定といえる。

というのも、証言者が「知らない」という場合、彼は本当に何も知らないのであって今後その情報が刷新される可能性はない。しかし刑事が「白黒がはっきりしない」と言うとき、その「真偽未定」には「現時点では」という意味合いが含まれていて、それは将来的な肯定あるいは否定の証明へと向けられているのである。

ここで、直観主義論理が古典論理と同じ「真/偽」二値によって「真偽未定」をも扱おうとするものであるということからは、直観主義論理の「真/偽」の意味あいが古典論理のそれとは違ったものであることが予想されるだろう。直観主義論理の真偽は何を意味するものなのか、それを以下にみていこう。

物事の真偽を問うということ、例えば、横断歩道の前に立つ子どもに「今、信号は青ですか?」と訊ねることができるのは、歩行者用信号機の信号が青か赤と決まっているからである。しかし色彩の概念を持たないであろう生まれながら盲目である人にとって、その問いが理解できないものであることを考えるとき、我々は次の反省を得るだろう。

それは、物事の真偽を問うことは、視覚などを含めた認知を前提したものであって、言いかえれば、我々の知る能力を駆使して得られる、その対象についての知識を前提したものであって、そういった我々の「知識状態」を抜きにしては行えないということである。

そこで、視覚を持たない人が色の真偽を論じることができないのと同じく、もし我々が全ての「知る能力」を用いても真偽を知りえない事態があるとしたら、我々はその対象を真偽において論じることはできないとすべきではないか、と考えることに正当性がでてくる。

直観主義論理の提唱者である20世紀オランダの数学者L.E.J.ブラウアーは、円周率πの無限小数列にその事態を見ることができるとした。

πに関する以下の談義は、市川秀志『カントールの区間縮小法』[1] などを参照したものだが、要点は難しくない。

無限に続くπの小数列に対しては、それが無限であるゆえに我々はその全体を知ることができず、そのため真偽を問えない事態が生じているということである。

3.14159...と規則性なく続く円周率πの小数列について「0が100個連続して現れる」という命題を立ててその真偽を考えてみる。

2009年時点で数億桁まで知られていたπの小数は、2019年には31兆桁まで計算されたとのことである。現在(2021年)までに「0が100個連続する小数列」が現れたか否かは確認できていないが、ここでその点は重要ではないので、現時点でそのような列は出てきていないものとして話を進めよう。

すなわち現在「πの小数列に0が100個連続して現れる」という命題は真ではない。しかし、もし将来さらに計算を続けることで、そのような部位が現れれば、それによって命題の真であることがいえるので、命題の真であることについては証明できる可能性がある。

一方、命題の偽であることが証明できる可能性について考えてみると、それは全くないことがわかる。

現在、31兆桁まで明らかになっているにも関わらずそのような列が見つかっていないということから、当面それは現れないだろうと考えても差し支えなさそうだが、しかしどれほど長い桁数を計算した後であっても、その時点までにその命題列の現れていないことが、πがそれを含まないことの証明になるわけではないことは明らかである。そのすぐ次の桁から現れ始めるという可能性が常にある。したがって任意の時点で命題列が現れていないということが、命題の偽であることの証明にはならない。

この命題が偽であることを言うためには、0が100個続く列が「最後まで現れない」ことを見届けなければならない。しかしπは無限小数なので、これを最後まで計算し尽くすことは人間がどれほど長い世紀を生き延びようともできることではない。そうすると我々は、この命題が偽であることについては、永久にそれを述べる機会を持てないことになる。

排中律「真または偽」は、そこに立てられた命題の肯定、否定のいずれかが真であることを主張するものであるから、その片方について全く証明可能性のない命題についてこれを主張することは不適切であるだろう。

この場合に言えることは「真または偽」ではなく「真または不明」、もっと正確に言えば「真または真の可能性」ということであって、この二者択一に「偽」は可能性としてすら含まれない。それゆえこの二者択一は古典論論理で考えられてきた排中律ではないのである。したがって我々はここに排中律が成立しない事態に直面しているということになる。

もう一つ、野矢茂樹『入門!論理学』[2] に述べられている「盲腸」と「勇気」の例から排中律の意味を考えてみよう。

同書には「亡くなった人の盲腸の有無については、たとえ彼が死んですでに火葬されており、その有無を調べようがなかったとしても『彼には盲腸があったかなかったかのいずれかだ』と考えてよい。しかし、勇気についてそう考えてよいとは断言できない」と書かれている。

このことからまず教えられるのは、排中律が不適切となるのは「盲腸」の例のように、単に事態の真偽が不明である場合、というのではないということである。確かに、死亡のためその人の盲腸の有無を知る手だてが完全に失われている状況においても「彼は手術によって盲腸がなくなっていたかそうではなかったかのいずれかだ」と排中律的に考えることに誤りはない。

つまり、直観主義論理は、単に真偽がわからない事象に対して適用するべく考案された論理ではないということである。それだけのことであれば、上のように古典論理の排中律で真/偽いずれかだと言い切ってしまってよいし、三値論理で述べることもできるだろう。

同書では、しかし同じように真偽不明の事態を想定しうる「勇気」については、それを「あった、なかった」と論じることができないように思われる、と述べられている。その理由は、「勇気」の存在は、それを示す機会が彼の一生のうちに存在したか否かに依存しているから、とのことである。これはとりあえず次のように理解されるかもしれない。

勇気の意味を「勇気とは、何々の場面に遭遇したときにその場面に立ち向かうか否かによってその有無が明らかになるもの」と定めた場合、そのような場面に彼が遭遇する機会があれば、それによって勇気の有無が判定されることになる。

しかし彼の一生のうちにその機会がなかった場合には、定義にある「何々の場面に遭遇したときに」という前提が成立しないので、彼の勇気の有無を論じることに正当性がないということになる。同書54頁には「人間がそれを観察するチャンスがあるかどうかにその存在が関係してしまうような、そういう存在」を排中律で扱わないことが直観主義論理の立場であると述べられている。

しかしこれは単に、前提が成立しないときに排中律言明が不適切となることを言うものではないだろう。前提が成立しない事例は、Easy study 2の「父の約束」にも見られる。

前日に子どもに約束をしていて当日晴れなかった場合、晴れたら行くと言っていた父親の言明は、行っても真、行かなくても真である。この場合やはり「父親は子供たちを連れて動物園に行ったか行かなかったかのどちらかである」と断言してよいはずである。したがって、条件法での前提が成立していないことが、排中律言明を行わないことの理由ということではなさそうである。

そこで『入門!論理学』では、勇気についての判定が、単に「観察するチャンスがあるかどうか」にかかっているということではなく、「観察するチャンスがあるかどうかにその存在が関係してしまう」という勇気の性質に言及されている点が注目される。

「父の約束」では、翌日の父の行動を観察するチャンスがあるかないかによって父の行動そのものが存在したり消えたりすることはない。何らかの行動は必ず存在している。

しかし勇気の場合は、観察機会がないと分からないのは勇気の有無そのものであり、言いかえればそれは勇気の存在がわからないということである。ここでは真偽を問うことが存在を問うことになっている。

このような場合に排中律言明は行えない、と同書は述べているようである。それゆえ単に観察機会の有無、あるいは前提条件の成否ということもまた、排中律言明の適不適を分けるものではないということである。

さらに、「勇気」が、「πの小数列」とともに直観主義論理の事例に数えられていることからは、πの事例が持つ「偽であることの証明可能性がない」ということが、排中律を適用してはならない本当の理由ではないということも推察される。

勇気の例について『入門!論理学』の著者は「排中律は成り立たないように思えます(p.51)」「盲腸はあったかなかったか、どちらかでしょう。だけど勇気の場合には…どうも釈然としません(p.52)」と終始弱い表現を使っている。

排中律が成立しない事例として「勇気」が「πの小数列」ほどの明確さを持たないと感じられるのは、πでは命題の偽であることの証明可能性がないのに対し、勇気では偽であることの証明可能性があることに関係しているのかもしれない。

彼に勇気を示す機会があり、その時に何の行動も示さなければ、定義により彼に勇気がないことが証明される。偽であることの証明が可能という点で「勇気」は「πの小数列」と違っており、排中律が成立しない事例としての「強烈さ」に欠けているということなのかもしれない。

しかしそれはともかくとして、「勇気」を排中律不適用の事例に数え入れていることからは、「偽を証明できない」ということが排中律が成立しない理由ではないことがわかる。πの事例には排中律が成立しない別の理由それは「勇気」の事例と共通する理由があるということになる。

ここまでを整理しておこう。

1. 盲腸の例(古典論理)

既に亡くなった人の盲腸の有無について情報がないためにその有無が永遠に不明だとしても、「その人の盲腸は有るか無いかのいずれかだ」と断定してよい。真偽不明の事態であっても排中律は有効。

2. 父の約束の例(古典論理)

明日晴れたら動物園に行く」と約束した場合の前提条件が成立しなかった場合でも「父親は子供たちを動物園に連れて行ったか行かなかったかのいずれかだ」と判断してよい。前提が成立しなくても排中律は有効。

3. πの小数列の例(直観主義論理)

πの小数列に0が100個続く列がある」という命題について、その偽であることを証明できる可能性がないので、「πの小数列には0が100個続く列があるかないかのいずれかだ」という排中律言明は行えない。ただし偽の証明可能性のないことそのものが、排中律言明が行えないことの理由ではない。

4. 勇気の例(直観主義論理)

ある人の勇気の有無については、その人が勇気を示す機会を得ていればその有無を判定できるが、機会を持たなければ判定できない。このとき「その人の勇気はあったかなかったかのいずれかだ」という排中律言明は行えないように思われる。それは単に勇気を示す機会がなかった、すなわち勇気を示すための前提が成立しない場合もあるからというのではない。勇気というものが、それを示す機会がありかつそれが存在していれば分かるが、そのいずれかが欠けている場合すなわち勇気を示す機会があったかなかったかが不明であり、そして当然ながら勇気の有無も不明であるとき観察機会がなかったために彼の勇気を見ることができなかったのか、それとも本当に彼に勇気がないためにそれを目にすることがなかったのかの判断がつかない、そのようなものと考えられるからである。

ここで、古典論理と直観主義論理の使い分けは事例によって決まっているわけではなく、あらゆる対象はこれら二つの論理において論じることができるという見方をすることは可能であるだろう。

実際、『入門!論理学』では、古典論理、直観主義論理の相違は、哲学上の「実在論的立場」と「反実在論的立場」という認識観の相違に遡るものであり、実在論的立場からは「勇気」に対しても「πの小数列」に対しても排中律言明が行われる旨の記述がある。

確かに、無限に関わる対象は絶対に直観主義論理で扱わなければならないというのではないし、また当節冒頭に述べた「犯人」の事例は有限事象であるが、それについては裁判官のように古典論理的に捉えることもできるし、刑事のように直観主義論理的に捉えることもできる。証言者の捉え方が三値論理的であることにも触れた。対象の扱い方は基本的には任意であるといえる。

しかし有限事象である「盲腸」の有無について、あえて直観主義論理を持ち出して論じる必要はないと考えられること、また逆に、「πの小数列」を古典論理で論じることが不適切ではないとしても、直観主義論理による見方を採用することで、その事象を別様に扱えるという点を考えると、事例に関係なく、ただ古典論理的見方と直観主義論理的見方があってそのどちらも可能だとするのではなく、古典論理においては見落とされていた事態を直観主義論理は見ようとしている、そして我々の経験にはそのような、直観主義論理的思考によってしか見い出せないような何かがあるのかもしれないという捉え方をする方が面白いということはいえるだろう。

さて、直観主義論理における「真/偽」の構造は、「πの小数列」よりも「勇気」の例の方によく表れている。直観主義論理では、事の真偽を問題とする以前に、それを知っているか否かという「知識状態」を問題にする。その上で、知っているのであれば「真であることを知っている」のか「偽であることを知っている」のかを問うて、そこに論理の命といえる真理値「真/偽」を割り当てる。

したがって直観主義論理の「真/偽」とは「真と知っている/偽と知っている」あるいは「真が証明済/偽が証明済」ということであり、いずれにしても知られていることだけを論述する論理である。知られている範囲に「真/偽」を限定することによって「不明」「未証明」「真偽未定」などの事態は、この「真/偽」の外に置かれる。

すなわち「勇気」の例では、彼に勇気を示す機会があったかなかったかがまず俎上にあげられ、その機会があれば「勇気があることが証明された/勇気がないことが証明された」という意味での「真/偽」が定まる。

しかし明らかなように、この「真/偽」は、勇気を示す機会がなかった場合のことを含んでいないので、ありえる事態のすべてを網羅したものではない。つまり真か偽のいずれかが必ず成り立つような「真/偽」ではない。

このため直観主義論理の「真/偽」は公理とされないのである。直観主義論理はこのようにして、つまり排中律を公理としないことによって、「真/偽」二値の論理でありながら真偽未定の事態を論理の中に取り込んでいるということである。

πの小数列の例では、直観主義論理における「偽」すなわち「偽が証明される」事態が存在しないため、この論理における真、偽、真偽未定という真理値構造を捉えることは難しい。また、πの例では真と真偽未定という二つの事態だけがあるので、これをP∨¬Pと表現すれば、これをもって公理としての排中律にすることもできそうな気がする。

しかし直観主義論理はそのようなことを行っていない。直観主義論理が「排中律」をどのように扱っているかという点は、この先でもう一度考えてみることにしたい。(Hard Study5-2-3~5-3-2)

一方で、古典論理では「真/偽」以外の事態が存在することは考えられていない。対象についての言明は、真あるいは偽として述べることが常に可能であり、この判断を逃れる事態はないという見方が最初から行われている。

それゆえ古典論理における排中律の隠れた意味は、排中律によってその対象のありえる事態の全てが網羅されている、ということである。「今、信号は青か青ではない」という言明が永遠の真理であるのは、この言明により信号機の状態すべてが言い尽くされているからである。

さて、ここまでは直観主義論理の例に挙げられている二つの事例、「πの小数列」と「勇気」について、その相違点を注目したが、ここで視点を切り替えて、これら二つのの事例の共通点に目を向けてみたい。すると漠然とではあるが、どちらの例も命題の否定の側が複雑であることに気がつく。

古典論理の「盲腸」の例では、命題の否定は「彼に盲腸はなかった」ということに尽きる。これに対し、πの小数列では、命題「πの小数列に0が100個続く列がある」の否定は「πの小数列に0が100個続く列がない」ということだが、先に見たようにそれはけっして言えることではないという事情がある。

また「勇気」の例では、「彼に勇気がある」ことが認められないという場合、本当に彼に勇気がない場合と、勇気を示すチャンスがなかった場合の二通りがありえるということで、これも肯定の反対側が難しいことになっているといえる。

そこで次節から野矢茂樹『論理学』に戻って、直観主義論理における「否定」の意味を確認してみよう。

ついでながら述べておけば、先の「事件のたとえ」の中で、その思考法が言及されていなかった立場がある。それは犯人と見込まれた被疑者の立場だが、彼においてはどのような思考が働いているといえるだろうか。それはデカルト的観念論の思考だといってよいだろう。すなわち、彼は誰がどのように自分を見なそうとも、自身が犯行を行ったか否かを、その自己意識において「明証判明」に知っているのである。