第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
論理学で¬(否)、∨(または)、∧(かつ)、⊃(ならば)などの基本的な否定子(否定詞)と結合子(接続詞)(以下、まとめて「結合子」と呼ぶ)の働きを定めることを「意味論」という。
先に、古典論理での結合子の働き方が真理表によって定められていることをみた。Easy study 2に掲載した「A⊃Bの真理表」「¬Pの真理表」「A∨Bの真理表」は、それぞれ⊃、¬、∨の意味を定めた古典論理の意味論である。(省略したA∧Bの真理表は、A∨Bの真理表の3列目を上から1000としたものとなる。)
この真理表によって、古典論理における¬の意味は、元の命題の真偽を逆転させる働きをもつものと定められたのである。
そこで直観主義論理の意味論を確認して¬の意味を調べてみよう。直観主義論理の意味論は同書(野矢茂樹『論理学』)170頁に掲載されている。
古典論理の真理表のような明快さからは程遠いが、順を追って理解していこう。
直観主義論理での「真/偽」は証明や知識に関わるものなので、時間のような概念が関係してくる。時間と共に知識は増え、未証明だったものが証明されるということがあるためである。
α、β、γは、その時間的な「期」を意味する記号で「知識状態」と呼ばれる。この「知識状態」というのは、特定の命題について、それが証明されているかいないかということ自体を言うものではなく、その命題の証明に寄与しうるようなその時その時の全般的知識環境のことを指す。
α、β、γと進むにつれて我々の「知識状態」は進歩し、知識環境αで証明できなかったものがβでは証明できるようになったといったイメージである。ただしこの「知識状態」は、実際には当の命題の証明/不証明を含めた意味で使われることが多いようである。
そこで、Ⅱ(1)にある
α⊩P
は、「知識状態αのもとで命題Pが証明されている」というように読み、またその命題が証明されていることを含めて「α期の知識状態」という。
期の進展と共に進歩する一連の「知識状態」を集めたものを、その命題についての「認識史」といい、Kで表される。
Rは知識状態α、β等の前後関係を示すもので、Rの右に置かれた期は左の期と同じかそれ以降の知識状態であることを示している。
⇔(双条件)は、≡(同値)と同じ働きに解して差し支えない。(同値についてはEasy Study 2-2 参照)
さて、ⅠではRが定義されている。Ⅰ(1)ではRの左右には同じ知識状態を置けるとし、これによりRが「同時期」を示すものであることが定義されている。
さらにⅠ(2)では、Rの右にあったもの[β]のさらに右にあるもの[γ]は、元のもの[α]よりも右にあるとされており、これによりRの性質を左から右方向へと向かう「以後」として定義している。この(1)、(2)によりRは「同時期またはそれ以後」という理解となる。
意味論ⅠでのRの定義はイメージ的に理解しておけばよい。問題はⅡであるが、ここでは何が定義されているのだろうか。Ⅱの冒頭に「集合Kと論理式の間に関係⊩(証明済/未証明)を定義する」とあるので、一読すると定義されているのは⊩のように感じられる。
集合Kとは、知識状態αとそれ以後のβすべてのことであるから、Ⅱの冒頭の前半は「知識状態α、βと(1)~(5)の各論理式の間に」と読めばよいが、後半の「関係⊩を定義する」という表現が紛らわしい。というのもここでは、⊩ではなく結合子が定義されていると理解すべきだからである。
先にEasy study 2で、古典論理の意味論である真理表では何が定義されているのかということを確認した。そこでは4つの結合子¬、∨、∧、⊃の働きが真理表における1、0の配置によって定義されていたのであった。
直観主義論理の意味論においても定義されるのはやはり4つの結合子¬、∨、∧、⊃の働きであると理解されなければならないだろう。直観主義論理ではこれを古典論理の1、0に代えて、⊩、⊮を配置することで、古典論理とは異なる意味を定義するのである。
古典論理の1、0は文字通りの真、偽を意味し、これは対応説的な真理観に基づく概念であるが真理表の中では定義されていない記号である。
同様に、直観主義論理の⊩、⊮は証明済、未証明を意味し、こちらは整合説的な真理観に基づく概念に近いが、やはり未定義な語であると考えられる。ただいずれにしてもこれらの記号に持たされている意味とその配置によって¬、∨、∧、⊃の働きが定められているのである。
したがってⅡの文言は「知識状態α、βと(1)~(5)の各論理式の間に、関係⊩、⊮を次のように定めて、結合子の働きを定義する」と解するのが適切であるだろう。
直観主義論理において排中律が拒否されていることは前段に述べたが、古典論理で認められていながら直観主義論理で認められていない規則が他にもある。その代表は「二重否定除去則」で、排中律と同様、こちらも否定に関係する規則である。
実は、直観主義論理における排中律の拒否は、この「二重否定除去則」の拒否の結果であるといえるので、
二重否定除去則というのは、
¬¬P⊃P
というもので、いわゆる「否定の否定は肯定」のことである。これは「否定除去型の背理法」とも呼ばれる。
背理法というのは、証明したい命題の否定を仮定すると矛盾が起こることを示すことによって、その仮定が誤っていた、つまり命題の否定が誤っていたことを示し、それにより命題の肯定が証明されたとする方法である。
Pという命題を証明しようとするとき、¬Pを正しいとすることから出発する誤りのない推論によって矛盾が導かれるなら¬Pは真ではないことが結論できる。そして¬Pが真ではないならば、すなわち¬¬Pならば、Pが真というのが古典論理の二重否定除去則であり、この証明方法を否定除去型の背理法という。
同書『論理学』では、直観主義論理の二重否定除去則について次のように書いてある。
論題23「証明可能性」を中心概念と考える直観主義論理の意味論では、二重否定除去則が成立しなくなることを説明せよ。
道元「まず、¬¬Aが証明されたとする、こう始めていいのかね。」
野矢「ええ、そのときAも証明されるかどうか、考えてみてください。」
道元「¬¬Aが証明されたとする、ということは¬Aを仮定したら矛盾が出てくるということだ。つまり¬Aは証明されえない、ということかね。」
野矢「その通りです。」
無門「¬Aが証明されえないならば残るはAじゃろ。」
道元「それはいけない。それはまだ排中律に縛られている。¬Aが証明されえないと分かったからといって、Aが証明されたわけじゃない。」
会話形式なので言葉の体裁は易しいが、ここをすらすら読んで理解できるという人はそう多くないと思うので補足しておこう。
道元の「まず、¬¬Aが証明されたとする」というのは、二重否定除去則が¬¬A⊃Aであるとき、この前件¬¬Aは、後件Aを導くための前提条件であるので証明済とみなす必要があるということである。その上で、Aが導かれるかどうかを考えるのがここでの課題である。
続く道元の「¬¬Aが証明されたということは¬Aを仮定したら矛盾が出てくるということだ」というのは、証明済としたその¬¬Aを、¬Aを仮定とする背理法から導かれたものとみなすということである。その結果として¬¬Aが帰結しているということは¬(¬A)、つまり「¬Aではない」が帰結しているということなので、これは仮定¬Aと矛盾しており、仮定が間違っていたことを示している。そこで、道元「つまり¬Aは証明されえない、ということかね」となる。
そしてここまでは推論に問題となる点はないが、しかし「¬Aが真でなければAが真」というのは古典論理においては正しいが、直観主義論理では「真」に代えて「証明」が使われるので、「証明」の意味するところから考えて、無門の主張のように「¬Aが証明されなければAが証明されたことになる」とはならない。¬AであることもAであることも証明されないということがあるためで、最後に道元が述べている通りである。