第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 2 信仰と理性の多対多関係 (11)

Hard study 5-2-2 「二重否定除去則の拒否」と意味論(5)間の矛盾

しかしここで疑問が生じる。道元の言明と、直観主義論理意味論(5)は矛盾しているのではないだろうか。というのも、(5)は二重否定除去則を述べているように見えるからである。これを確認してみよう。

双条件(⇔)あるいは同値(≡)で結ばれた論理式は「対偶」だけでなく「裏」も成り立つので、(5)は、¬について、以下の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)の4通りを述べていることになる。このうちの特に(ロ)に注意してみたい。

以下、αを「ある期」または「頭初期」と読み、βを「後続期」と読むことにする。(イ)、(ハ)の否定版である裏言明(ロ)と(ニ)が以下のようになることの説明は省略する。ただし(ロ)については同書内で確認できる(矛盾律の妥当性証明 p.177①②)。なお、元言明の「すべて」が、裏言明で「ある」「どこか」「存在」等になることについては、同書、古典述語論理の「ド・モルガンの法則」を適宜参照のこと。

また、以下で命題P、¬Pの取り替えは不可。例えば、(ハ)(ニ)の規則で、αで¬Pとは、βでの命題Pのあり方によって、Pの真偽をαで反転するということではなく、単に¬をPに付加することを示す。

(5) α¬P⇔ αRβなるすべてのβに対して、β

(イ) (5)→方向

αで¬Pのとき、すべてのβで

ある期で命題Pの否定が証明された場合、後続期で肯定は証明されない

(ロ) (5)→方向裏

αで¬Pのとき、あるβで

ある期で命題Pの否定が証明されていない場合、後続期のどこかで肯定が証明される

(ハ) (5)←方向

すべてのβでPのとき、αで¬P

後続期すべてで命題Pの肯定が証明されない場合、頭初期で否定が証明されている

(ニ) (5)←方向裏

あるβでPのとき、αで¬P

後続期のいずれかで命題Pの肯定が証明された場合、頭初期で否定は証明されていない

(ロ)では否定命題の不証明が肯定の証明になると言われている。直観主義論理では否定も不証明も¬で表現されるので、これは

 ¬¬P⊃P

を述べているのに等しい。しかしこの理解は道元言明に反しており正しくないということである。

この点の納得も難しいが、加えて、そもそも(ロ)は「ある期で命題Pの否定が証明されていない場合、肯定が証明される後続期が存在する」と断言している。これは常識に反した理解であって、はたしてこんなことがあるのだろうかと言いたくなる。

すなわち、(ロ)と道元言明との関係だけでなく、(ロ)そのものの理解もまた難しいと言わなければならない。

(5)は直観主義論理の¬の意味を規定しているが、古典論理の¬が「真理値の逆転」と一言で言い表せるのに比べて、その性質を捉えるのが難しい。

とりあえず簡単なところから捉えてみると、まず(イ)と(ニ)が述べているのは常識的な証明観であり、これらについては特に困難はないだろう。肯定であれ否定であれ、一度証明された事柄の逆が証明されるということは起こらない。証明は覆ることはない。それが証明というものであって、もし覆るのであればそれは証明ではなかったのである。

また、(イ)と(ハ)は読む順序(方向)が違うだけで同じことを言っている。(ロ)と(ニ)も同様の関係のはずだが、(ニ)は常識的であるのに、(ロ)は納得がいかない。したがって難しいのはやはり(ロ)である。

仮に(ロ)が「ある期で命題Pの否定が証明されていない場合、後続期のどこかで肯定が証明される可能性がある」と言っているのなら常識的な理解で間に合わせることができる。しかし(ロ)に「可能性」という言葉はない。

(ロ)と同じことを言いつつ、未来から現在に読む(ニ)については不思議はない。未来が決まったなら、すでに過去となったかつての現在を断定できることは常識的な理解だ。

例えば、何かの試験のために日々努力を重ねているときの現在の本当の状況というのは、未来の試験の結果が明らかにするといわねばならないだろう。現在の状態が未来を決めるのではあるが、現在の真の状態は未来によって知られるのである。

これに関連して、同書の「認識史分析」(p.178)の手順解説には以下の一行がある。

「知識状態αになるには将来の知識状態βがどうあるべきか、を明らかにする」

ここでは未来のβが過去のαの条件となっており、上の「試験」の例のように、ただ「現在の状態は未来において知られる」というのではなく「現在は未来の状態から決まる」と言われているかのようである。

しかしこれは後の「証明表」で見るように、現在の特定の知識状態が未来の特定の知識状態と結びついていることを示すものであって、未来の状態が現在の「原因」となっていることを言うものではない。α、βには時間的順序はあるものの、それぞれの状態は論理的に同時的に決定されている。

そのため、α、βの時間的な順序にこだわりながら(5)の(イ)~(ニ)を解釈しようとすることは要らぬ試みであって、仮に(ロ)が理解し難ければ、その時間順序をβから読む(ニ)の理解をもって(ロ)の理解とすればよい、というのが論理学的な適切な扱いなのかもしれない。

しかし、ここでは(5)(イ)~(ニ)が示す時間的順序にあえてこだわって、それが意味するところのものを考えてみたい。そうすることが直観主義論理という不可解な論理を理解する手がかりとなるように思えるからである。

さて改めて、(ロ)は現在の不証明から未来の証明を断定する言明である。それは現在の証明から将来の不証明を述べる(イ)とも全然違っていて、この点が分からないと感じさせるところである。

(ロ)を文字通りにとれば、否定証明のないどんな命題も将来には必ず証明されることになるが、(ロ)は本当にそういうことを主張しているのだろうか。

もっとも意味論は公理を築くためのものであり、公理系の公理はどんなものであっても構わないのだから、意味論や公理にやたらと理解を求めて、分からないことについて疑問を呈することが無意味である場合もある。

例えば同書52頁に掲載されている「公理系0-1」がその一例であるが、そこにある0と1の並べ方を定めた公理系からは列「10」が定理として導かれるなどする。しかしその時に働く「公理系0-1」はゲームのルールと同じものであって、そこに意味を尋ねることは無用である。

公理系0-1

同様に、直観主義論理の意味論に対しても理解を求める必要はないと考えることもできそうだが、しかしそうすることが、本来は理解すべきはずのものを理解不能のままにしてしまうということもあるだろう。

したがって「公理系0-1」のように意味論を持たない公理系については意味を尋ねないとしても、直観主義論理のようにしっかりとした意味論に基づく公理系の場合には意味がある、すなわち「現実世界との対応がある」と考えるべきである。

意味論は論理と現実世界の架け橋であるから、直観主義論理の意味論は、この論理が現実世界との対応において有用なものとして構築されていることの証しであるはずである。

したがって意味論(5)(ロ)は、現実世界に生きる我々に理解可能なものとしてあるはずであって、それゆえそれが意味する世界がどういうものであるのかを知りたい。

道元の言明に戻って、(5)(ロ)との関係を見てみよう。

道元

「¬Aが証明されえないと分かったからといって、Aが証明されたわけじゃない。」

(5)-(ロ)

「ある期で命題Pの否定が証明されていない場合、後続期のどこかで肯定が証明される」

道元と(ロ)は、前半では同じことを言いつつ後半では正反対のことを述べており、二つの言明は矛盾している。道元が自身理解したての直観主義論理の特質を申し述べているその足下で、直観主義論理の根源である意味論がそうではないようなことを言っているのである。

ここで、意味論(5)に含まれるα、βを、道元言明と、(ロ)に、それぞれ使い分けることが考えられるかもしれない。(ロ)は命題の肯定証明をβ期としているので、道元の言明をα期に限定されたものとみれば両者の矛盾はなくなるといえる。

βはαを含むので、これにより(ロ)と道元言明のつながりができる。その上で(ロ)の「βのどこかで証明される」という状況を考えてみると、βで証明されるとは、αで証明されることもあるがαより後の期で証明されることもあるということなので、道元の「Aが証明されたわけじゃない」をα期についての言明とみれば、妥当な言明ということになると思われる。

しかしこれはまだ単なる解釈の域を出ない理解なので、なお判然としていないことは記憶しておこう。