第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
では意味論と構文論間の矛盾と見える二つの事態(意味論での二重否定除去則が論理的真理として述べられているように見えること、意味論において排中律が論理的真理として使われていること)はどう理解できるだろうか。
意味論Ⅱ(5)(ロ)に見られる「ある期で命題の否定が証明されない場合、後続期のどこかで肯定が証明される」というのが、直観主義論理版の二重否定除去則だが、しかしこの二重否定除去則が論理的真理ではないことは証明表のイメージを思い浮かべるだけで気がつく。
このとき、先に行ったような¬¬P⊃Pの証明値がどうであるかの確認は実は必要ではない。というのも論理的真理であるためには、後続期すべて(先の証明表ではαと~βの両者)が証明済記号⊩で埋められなければならないが、(ロ)は、命題が証明されるのは「後続期のどこか」と述べているのであり「後続期すべて」とは言っていないからである。
この「後続期のどこかで証明される」を、αと~βからなる認識史に表現すると、α⊮、~β⊩となり、認識史に不証明が入る。α⊩、~β⊩とすると「後続期すべてで証明」を意味し論理的真理だが、(ロ)の言明はこれではない。(意味論の「後続期」とは~βではなく、αと~βからなるβのこと(Hard study 5-2-2)。βは意味論Rの定義によりαを含む(Hard study 5-2-1)。)
つまり(重要なことに思えるが)、意味論は論理的真理である規則(妥当式)を述べたものなのではないということである。意味論は結合子(ここでは否定子¬)の働きを定め、その結果として、何が妥当式となり何が妥当式とならないかを定めるものである。
先に、二重否定除去則と排中律が、意味論規則によって論理的真理ではないことが証明されるのを見たが、このことが示しているのは、直観主義論理の¬の働きが、古典論理の¬の働きと違っており、そのため二重否定除去則や排中律が論理的真理にならないということである。
そこで実際に証明値を確認した「直観主義論理の¬¬P⊃Pの証明表」では、二重否定除去則は認識史01のα期で⊮を得ている。そして~β期で⊩を得ているが、この状況は上で見た(ロ)の言明そのものである。したがって(ロ)は¬についての認識史01を述べた規則であり、二重否定除去則を妥当式として認めない言明そのものだったのである。
構文論における二重否定除去則の拒否と意味論の(ロ)が矛盾していると見えたのは、(ロ)の「どこかで」を考慮せずにこれを無時間的に読んで、意味論が述べる妥当式と見たためである。しかし意味論は妥当式を述べる場ではない。
構文論の公理系は意味論規則に則った上で、論理的真理である規則を、4つの結合子の導入と除去について整えた公理群として構成される。この意味では、先に、Hard study 5-2-3 で否定した「構文論が偉大」という見方、すなわち意味論と構文論間には断絶があるという見方もあながち誤りではないといえるかもしれない。
付け加えれば、直観主義論理の公理群である「公理系LIP」は、古典論理の「公理系LP」の「¬¬AからAを導出してよい」という二重否定除去則を「D∧¬Dから任意のAを導出してよい」に取り替えたものである。この実質的に矛盾を禁止する新たな規則は、古典論理の二重否定除去則に含まれる矛盾律だけをLIPの公理として残したものと解することができる。
次に、直観主義論理意味論に認められる排中律と、構文論でのP∨¬Pが論理的真理ではないことの関係はどう理解すべきだろうか。こちらの場合は、上にみた、二重否定除去則とは事情が全く異なっている。
Hard study 5-2-3「論題25」のところで触れたとおり、直観主義論理の意味論に排中律が含まれていることは確定している。意味論で知識状態αにおける命題Pは証明されているか証明されていないかのいずれかである。そして確かにこれは、直観主義論理が拒否している排中律そのものである。
古典論理の意味論に戻って考えてみると、そこで4つの基本結合子に意味を与えているのは真(1)、偽(0)の記号である。すなわち真理表に入る値は1か0のいずれかであって、ここでやはり「排中律」が成立している。
しかしここで成立している「排中律」は、古典論理の定理としての排中律ではない。古典論理の定理としての排中律は8個の規則からなる公理群「公理系LP」から導かれるものである。
ところがその「公理系LP」を定めるのは、古典論理の意味論である真理表である。したがって真理表に見い出される1か0のいずれかである真理値としての「排中律」は、古典論理の定理としての排中律以前に存在する「排中律」なのである。
同様に、直観主義論理の意味論において、4つの基本結合子に意味を与えているのは、証明済(⊩)、未証明(⊮)の記号である。
そして証明表に入る値は⊩か⊮のいずれかであること自体は、古典論理の真理表の1、0と同様に、直観主義論理においても問われていないこととして理解されなければならない。この時点において、あらゆる論理の基礎としての「排中律」は使われているのである。
付け加えれば、ここでの直観主義論理意味論における「排中律」は、構文論に論理的真理ではない形で存在する排中律とは形が違うものである。
意味論の「排中律」は「⊩Pまたは⊮Pのいずれか」というものだが、構文論の排中律は「Pまたは¬Pのいずれか」であり、前段(Hard study 5-3-1)で見たように、このPと¬Pは、意味論においてすでに独立した関係にあり証明値の与えられ方が自由である(といっても4通りではなく3通り)。この意味論での事態が構文論に引き継がれて、構文論でのP∨¬Pは論理的真理の関係とはならないのである。
これに対し、古典論理の意味論ではPにおける1/0の設定が¬Pに0/1として反映される。意味論でのこのPと¬Pの相互規定関係、すなわち互いが必ず逆の真理値をとる関係が、P∨¬Pの排中律として構文論にそのまま引き継がれているのである。
したがって意味論と構文論は、論理的真理に関しては断絶といえる関係にあるが、結合子の規定に関しては連続しているのである。
意味論レベルにおいて論理の基礎としての排中律と矛盾律を使用しない「量子論理学」のようなものが可能であるのかはわからないが、以上の考察からは、少なくとも古典論理と直観主義論理はそのようなものではなく、我々が通常使用している論理の土台の上に構築されているということがわかる。