第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
理性的思惟の基本となる「真理」判断について「真理の対応説と整合説」と呼ばれる区分がある。ライプニッツは次のように記している。
「二種類の真理、すなわち推論の真理と事実の真理とがある。推論の真理は必然的であり、その反対は不可能である。事実の真理は偶然的であり、その反対は可能である。」
「推論の真理」で「その反対は不可能である」の意味は、例えば、定義的な言明「三角形は三つの角を持つ」について、その反対「三角形は三つの角を持たない」という事態が不可能であることを指す。
「事実の真理」で「その反対は可能」とは、経験的な言明「中庭に木がある」について、その反対言明「中庭に木がない」は、たとえ偽の判断であったとしても事態としては可能であることを指す。
「真理とは何か」とはイエスの尋問者ピラトの言として福音書にも出てくるが、哲学史においては、理性的意味での「真理」には二つの種類があると考えられてきた。
一つは、ある命題(判断を述べた言明)とそれが指す事実との間に観察的な一致が認められる場合をいうもので、その真理性は、判断と事実の対応性に置かれる。
ライプニッツの引用では「事実の真理」と言われているが、哲学での一般的な言い方は「真理の対応説」であり、アリストテレスの次のことばがしばしば引用される。
「存在するものを存在しないと言い、あるいは存在しないものを存在すると言うは偽であり、存在するものを存在すると言い、存在しないものを存在しないと言うは真である」
「真理の対応説」は、命題の真偽を、命題自身と命題が述べている事柄との対応の有無において決定しようとするものである。このような考え方は自然なことと思われるが、この「真理の対応説」が観念論 対 実在論という認識論の対立構図の中に置かれるとき「模写説の困難」と呼ばれる事態に陥ることが知られている。
「真理の対応説」は、いわば外界を正しく写し取った主観的観念(認識、命題、判断、言明等)を真理とするわけであるが、その観念が正しく写し取られたものであるか否かを知るためは、改めて外界を観察することになる。しかしその観察によって得られた「外界」というのは、やはり写し取られたいま一つの観念としてしか知ることができないため、そこでは観念と観念が対比されることになり、「真理の対応説」が意図していた観念と実在の対応を果たさないのではないかと「模写説の困難」は主張する。
「真理の対応説」においては、外界については素朴な信念――外界がわれわれの認識から独立して存在していることは確かであるとか、観察によって外界のあるがままの姿が知られるなど――があるのみであり、外界の認識についての主観要素の関わりという近代認識論的な視点がなく、その点が批判されているのである。
知識の源泉に関する実在論 対 観念論、あるいは経験論 対 合理論という認識論の対立構図は、17世紀のロックの経験論から始まる主要な論題であった。右目と左目では色の見え方や明るさに微妙な違いがあることから本当の色や本当の明るさといったものはあるのか、もし物本来のあり方と、その見え方に違いがあるのなら、物に対して付けられた名辞は何を意味しているのか。
ショーペンハウアーとゲーテは次のような論争を行ったという。もし地球上の生命体のいずれにも目という器官が存在しなかったとしたら、たとえば太陽はどのようなものになるのか、それは現在「太陽」ということばでわれわれが理解しているところの「光輝く丸い物体」という概念とは異なるものであることは確かで、そういったものをやはり「太陽」と呼ぶことは適切なのだろうか。
そこでショーペンハウアーは「わたしが存在しなければ「太陽」は存在しない」と言い、ゲーテはこれに激しく反対して「君がいなくても太陽は地上を照らし続ける」と言ったのである。
このような議論を通じて、我々が持つ認識や使っている概念、あるいはカントによれば経験というものさえ、ただ外界から無条件に与えられているのではなく、我々自身が外界的要素に主観的要素を伴わせることで、そういったものを成立させているということについての理解が深められるようになってきた。
この問題は18世紀のカント、19世紀のヘーゲルにおいて、観念論優位の決着がみられたが、20世紀にはラッセルらの新実在論が登場し、現在も「指示理論」(ことばは外界を指示しているか)、「観察の理論負荷性」(先入見なしの観察は可能か)などの論題において論じられている。
現代哲学では、実在論 対 反実在論という対立構図となっており、「理性の内訳表」で横軸に使用している「構成主義」は、この反実在論的立場の一つである。実在論、構成主義については後述する。
このように「真理の対応説」には、外界あるいは実在をどのように定義できるかという問題が含まれており、古典的な「真理の対応説」は、これについて素朴な立場をとっているため、近代以後の批判に対しては、そのままでは通用しない面がある。
しかし、外界の確かさの問題、あるいは認識における主観的要素の評価といった問題は、「真理の対応説」が本来的に述べようとしているところとは別の問題であるともいえ、我々が一般的に「正しい」ということばを使う場合に、そこで意図されていることの基本的な意味は、この「真理の対応説」によって十分に表現されているといってよい。
「真理の対応説」は、20世紀のA.タルスキによる定式化によって、基本的な真理規準としての地位が改めて確認されることとなった。また、現代的な真理観、たとえば現代の科学的実在論においては、「真理の対応説」は理論の外にあって、その理論がもたらす帰結と外界との対応性、あるいは理論全体の外界への有効性を判断する最終審判者の位置にあり、重要な真理判定者の位を占めている。
ライプニッツが述べていたもう一つの真理である「推論の真理」は「真理の整合説」と呼ばれ、哲学史においては、やはりアリストテレスの『論理学』に遡る古い真理観である。
「対応説」では、真理規準として命題と外界の対応性が考えられていたのに対し、「整合説」の真理規準は、命題や理論が、あらかじめ承認された概念と規則に則っているかどうかに置かれる。古来、錯覚の源ともなる感覚を通じて得た経験的知識は不確実であるというのが哲学の定見であり、そのためライプニッツが述べるとおり、「推論の真理」がもつ「必然性」に、確実な知識の方法が求められてきたといえる。
「整合説」における真理の有効性はルールによって成立するゲームのようなものといえる。勝ち負けに関するじゃんけんの決めごとは、じゃんけん遊びをそこから始めようというルールであり、そのルール自体には理由も正しさもない。しかしそのルールが守られている間、じゃんけんは有意味に成立し続ける。
これと同様に、真理の整合説では、最初の取り決めや最終的な結果の対応説的真理性(事実との対応性)は求められておらず、ただ、あらかじめ取り決めたルールが守られるかどうかだけが問題とされる。
したがって整合説的に真理であるような体系において、たとえば科学理論の仮定やそれが示す帰結は、ときに全く理解しがたいという場合がある。しかし理解困難な科学理論も、それが整合性のある体系である限りは、世界の説明原理として有効である可能性をもつゆえに最終的に対応説による審判、すなわち観察や実験による「検証」を仰ぐ対象となるのである。
また「整合説」の真理は、事実によってではなく、論理によってその真であることが決まる形式的真理であるということができる。アリストテレス論理学における三段論法は、この論理的真理の形式性をよく表しているが、説明が煩雑になるので、ここでは「信仰論」Chapter 2-Argument 1-1で触れたカントによる「分析命題」を確認しておく。
分析命題とは「背の高い人間は人間である」のように、述語が主語に含まれている命題のことをいう。このような命題の真偽を知るには、実際に背の高い人間を見てみるといった事実観察は必要ではない。命題と事実の対応に関するそのような観察を経なくても、この命題の真であることは文だけから知ることができる。
それはこの文が、外界の事実についての真理を述べたものであるというよりは、論理規則における「同一律」あるいは「矛盾律」を表現したものにほかならないからである。そのことは、この文の「人間」の部分に、現実世界ではありえないようなものを代入したとしても、常に文の述べるところが真となるところに表れる。このように整合説的真理とは、事実ではなく論理が与えているものである。
「真理の整合説」は、中学での図形の証明問題でなじみのあるものである。図形の証明問題においては、公理や定理など使用が認められている事柄と、定義可能な方法(中点をとる、垂線を引くなど)だけを用いて、仮定から結論を導くことが求められる。
証明がうまくいくと仮定から結論に至る小さな論理体系ができあがるが、そのときその証明が「正しい」といわれるのは、あらかじめ許された事柄だけを使用して、与えられた仮定から既定の結論を構成したというその手続きの成功に対してであり、机上で導かれた結論が現実世界においても実際にそうなるからということが含意されているわけではない。
もっとも、中学数学では平面幾何を扱うため、仮定と定理から導かれた結論が、実際にもその通りであることは見た目にも確認できるため、対応説的正しさではなく整合説的正しさだけが求められているということを生徒が理解するには困難があるだろう。ただ、図形問題を解くにあたって、与えられた問題のとおり忠実に作図して、その結果を分度器や目盛りのついた定規で測ってみて問題の結論と比べるということが、なぜ証明として許されないのかという理由はここにある。その作業によって行っていることは真理の対応説的な証明だからである。
さて、外界との関係を問わないこのような真理観は、真理という名にほど遠く、価値が少ないと思われるかもしれない。しかしこの真理観は、対応説のように外界とのマッチングを問題にする前に、まず、自分が述べていることに内部矛盾がないかどうかを真理判定の第一チェックとすることを課題としているわけで、真理の候補者となりえるかどうかを自ら調べているのである。
矛盾という概念は、おそらく我々が普通に理解しているよりは恐ろしい概念で、矛盾は、真理であることへの可能性を残す不完全や不合理とは全く異なっている。それは証明された誤りであり、矛盾を許すと、体系としての統一的な主張が保てなくなり、そのような体系に真理の資格はない。この意味で整合性は重要な真理規準といえる。
また、外界との対応を問わないということは、逆に見れば真理の整合説がもつ自由さであって、この自由さは、我々の常識や日常感覚がもたらす制約を取り払い、予期しえない真理へと我々を導く可能性を持つことになる。
「現代解釈学」などの整合説的方法論においては、基礎づけをもたない現実離れした解釈設定が、その対象の隠されていた真実を明らかにする可能性をもつものとして考えられている。これについては実在論および解釈学のところで述べる。
ここで「二つの真理は要らない」ということで、理性の真理を一つとする考え方について触れておきたい。プラトンのイデア説は、真理の唯一の根源がイデアにあるとする学説である。しかし以下の考察から、それが真理観の混乱に基づく考えであることがわかる。
プラトンは「真理の想起説」をソクラテスに述べさせている。人がある事柄について正しいとわかるのは、もともと彼が生まれる以前にその事柄のイデアに接していたからであり、彼はこのイデアを想起することで真理を見つけるという。
――描かれたシミアスを見て、シミアスその人だとわかるのは、君がシミアスについての像を心に保持しており、それと比べていることによるが、その際、描かれたシミアスと君の心の中のシミアス像の「等しさ」というものについて、君はそれが何であるかを知っていることになる。つまり君は「等しさそのもの」が何であるかを知っているからこそ、二つの像を比べて判断することが可能なのだ。
ソクラテスはシミアスとケベスを前に以上のように述べた後、次のように言う。
「しかし、また、次の点についてもわれわれは同意しているのだ。われわれが等しさそのものを考え付いたり、考え付き得るのは、等しい事物を見たり、それらに触れたり、それらについてなにか他の感覚をもったりする以外には出所がないという点だ。しかし、経験において完全に等しいものを見いだすことはできない。したがってわれわれはかつて生まれる以前に『等しさのイデア』を見ておりそれによって等しいことのなんたるかを知っているのである。」
ソクラテスはここで誤りに陥っている。それは二つの真理規準を一つにしようとした誤りといえるが、この場合は、整合説を対応説において説明しようとした誤りということになる。二つの事柄の等しさを判断するのは、それらが事物と事物であれ、イデアと事物であれ、あるいは観念と観念であれ、いずれも対応説的な真理観によるものである。
しかし「等しさそのもの」を我々はそのような「対応」において知るのではない。確かに我々は全く等しい二つのものを経験することはできない。古代の賢者が述べた通り、我々は「同じ川に二度入ることはできない。」したがって、等しさそのものを知っていることを、経験的な対応説によって合理的に説明するためには、ここでソクラテスが述べるように、等しさそのものが完全に実現されているイデアというものに天上界などで接していることが必要ということになるだろう。
しかし現代的理解において「等しい」という概念は、「自分は自分自身に等しい」という「同一律」として、単に取り決めから得られた概念であると考えられている。それは対応説的な真理概念ではなく、整合説的な真理概念であって、それゆえじゃんけんのルールと同様、その正しさについての証明を必要としないものなのである。
証明が必要ではない理由は、以前は、それが「自明」と考えられていたためだが、現在ではそうではなく、それが任意に採用された「取り決め」であってよいことがわかってきたことによる。つまり整合説においては、初めにどんなことを真理として定めてもよいが、それを公理としたときに現実世界に対して有用な論理を築けるかどうか、というプラグマティックな観点からその公理の価値が評価されるようになったということである。
そしてこの「同一律」も「自明な公理」というのではなく任意の取り決めにすぎないわけだが、それを採用することによって、我々は現実世界に対して適用可能であるような論理や数学を築くことに成功してきているということである。