第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 1 倫理意識とキリスト教 (8)

Essay 4  聖書の信頼性は重要な問題か

キリスト教はカント的な厳格主義に対して、幸福主義的な倫理でよいということをどのように主張するのだろうか。次々節(Reflection)の終わりまでに、私は一つの答えを見つけることになるが、その顛末は以下のようであった。

保守派の新約聖書学者F.F.ブルースの信仰入門書に『新約聖書は信頼できるか』というのがある。

この本の主旨は新約聖書の記事が歴史学的に見て信頼に足るものであることを示すことにあるが、その第1章に「新約文書の信頼性ははたして問題になるか」という章が置かれている。

「新約聖書が歴史学的に信頼できること」を述べる前段として、「新約聖書が歴史学的に信頼できることは重要なことなのか」を検討しているのである。

わずか4頁の章だが、ここにブルースが記す「ある人」の主張は、宗教への見方として、宗教にある種のいらだちを感じているような人々の溜飲を下げる力があると思うので引用しよう。

「いったい、新約文書が歴史記録として信頼できるかどうかは、はたして問題になることなのだろうか。ある人は、非常な確信をもって、これに否定の回答を与える。彼らの言うところはこうである。

『キリスト教の根本原理は、新約聖書中の山上の垂訓や、その他(イエスが述べた教え)に書いてあり、真価は、それをはめ込んである物語のわくが、歴史的に真実であるか偽りであるかによって影響を受けたりはしない。じっさい、わたしたちは、この根本原理の語り手にされている教師(イエス)について確かなことは何一つ知っておらず、わたしたちに伝えられているイエスの話は神話か伝説なのかもしれない。しかし、彼が説いたとされている教えは、彼がほんとうにそれを説いたかどうかには関係なく、全くそれ自体としての価値をもっており、その教えを受け入れ、それに従っていく人は、たとえキリストを全く架空の人物であると考えても、真のキリスト者でありうる』

 というのである。この議論はもっともらしく聞こえる。」[1]

上の『 』内の見解を「まったくその通りでこれのどこがおかしいのか」と感じる人は多いのではないだろうか。宗教の外にいる人がキリスト教や宗教一般に対してこのような見方をしていることは多いと思う。かつての私の考えも、ここでブルースが代弁している「ある人」の主張と重なるように思われる。

この主張に対し、ブルースは二、三の反論を行っている。

一つめはキリスト教の中心が「福音」であるという点を取り上げるが、なぜかすでにこの時点で、ブルースの叙述は相手方の主張を述べたときほど明快ではない。意味をくみ取ると次のようになる。

 キリスト教が伝える「福音」は、私たちの罪が赦されたという喜ぶべきニュースであり、この知らせ(福音)こそがキリスト教の中核である。したがって、ニュースが誤報であっては意味を失うのと同じく、福音の内容をなすイエスの十字架と死およびそれに関連するできごとは誤報であってはならないので、聖書の記事が信頼できるかどうかは重要な問題である。

二つめはキリスト教の最古の信仰箇条が歴史事象を含むものとなっていることを指摘するものである。

 使徒信条やニカイア信条には「イエス・キリストはポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一節があり、これは伝えられてきた信仰が史実の認知を含むものとなっていることを示している。したがって、歴史性の真偽はわれわれの信仰内容の真偽と直結しており、これが否定されてはならず、この意味で聖書記事の信頼性は重要である。

さて、問題はこれで片づいたのだろうか。もし「ある人」が、単にキリスト教に無知な人ということならば、その人はブルースの答弁を聞いて「キリスト教というのはそういうものでしたか。恐れ入りました。出直してきます。」ということになるのかもしれない。

しかしブルースは明言していないが、この「ある人」の文言は、一部、同じく新約聖書学者であるR.ブルトマンの『イエス』からの引用でありよく知られたものである。[2] ブルトマンの見解と「ある人」の見解は完全に同じではないが、少なくとも、ブルースの念頭に彼の思想があったことは確かだろう。

そうすると、20世紀初頭の新正統主義神学の設立者であるブルトマンに対して、いまさら福音の何たるかを正統主義神学の立場から説くことは「釈迦に説法」のようなものなのだから、ここでは、それを承知のブルトマンに対しても通用するような反論、すなわち正統キリスト教の信仰とはどのようなものかを説くのではない反論が試みられるべきと思われるのである。

いや、それ以上に、ここでのブルースの反論は「ある人」の主張を門前払いしており、それが本来求めているところに真摯に答えていないと感じられるのだ。