第一部 信仰論 星加弘文

Chapter 1 倫理意識とキリスト教 (9)

Episode 3  「夜昼転換」と宇宙

ブルースは「ある人」を伝統的キリスト教に無知な人とみなして、キリスト教教義の中心はイエスが述べた「教え」ではなく使徒が伝えた「福音」であると説く。確かに、「キリスト教の根本原理は」から始まる「ある人」の回答は、何が正しいキリスト教であるかというキリスト教の定義を問題にしたもののようにも見える。

しかし彼の述べるところは、イエスの教えに従っていく限り「真のキリスト者でありうる」という主張で終わっていて、単にキリスト教の定義を尋ねるものというのではなさそうである。その言い分には、最終的に「真のキリスト者とは何か」に関する主張が含まれており、始まりの「キリスト教の根本原理のありか」についての言明も、そこに付随して述べられたものと解されるのである。

そうであれば「ある人」が述べようとしていることは、キリスト教信仰の正統/非正統の枠を超えたものと見られなければならないだろう。信仰の正統性ということよりも上に置かれるべきものがあると彼は考えている。であればそれは、聖書が事実を伝えていると信じるキリスト教の正統信仰に生きようとする者に向けられた異議でもある。

聖書に書かれていることが事実であるということが重要であるのは、自分の生き方をそういった何らかの事実に依拠したものとして考えているからに他ならない。確かに、そのような生き方をしている人にとって、信じている教えが事実であるか否かは重大な問題であるにきまっている。

しかし「ある人」の回答は、そのように、まず説かれた世界の在りようを信じ、それに基づいて行動するというそういう生き方そのものを問題にしたところに生じているのではないだろうか。

私は以前、「神がいるからどうだというのか」とある新興宗教の友に告げた。しかし、Episode 1に書いたその出来事にはいくらかの続きがあった。

当時、彼は他のクラスメートよりも聡明に見えていた。やがて宗教に関係し始めるようになった彼から、私は幾度か話を聞くようになったが、それは「第一次世界大戦の一九〇何年かに世界の夜昼よるひる)換が起こった」というようなものであった。

私はつまらなく思って「それが君の生き方とどう関係するのか」と聞くと、彼は「世界の仕組みがそうなっている以上それに従って生きるのだ」と答えるのだった。それは彼に似つかわしくない答えに思えた。私は落胆し「君の言うとおり神がいるとしよう。しかし、神がいるからどうだというのか」と言ったのだった。

しかしそれからほどなく、私は逆の立場に置かれる経験をしたのである。

私は少年時に『宇宙の神秘』という本を読んだのがきっかけでデパートに飾られていた口径4cmの天体望遠鏡を買ってもらい、その後、子供ながらに町の図書館で観望会を開いたりクラスの仲間を集めて流星や星食の観測を行っていた。

中学を卒業する頃には高感度に現像したネガを町の写真屋に持ちこんで、気に入るまで何度でも店主に焼き直しをさせ、得られたキャビネ判の写真を月刊誌『天文ガイド』と『天文と気象』に応募するようになっていた。結果、私の写真は四度入選し、その中の一枚は雑誌の表紙として採用されることになった。

火星大接近の年、私の表紙入選を知った新聞社が取材に訪れ、製作中の木製の望遠鏡と一緒に撮影された記事が「火星接近心待ち」の見出しで地方版の頁に掲載されるなどした。

ただその見出しは見当違いで、私の望遠鏡は口径15cm口径比F6の当時の典型的な反射型短焦点のもので、惑星観測用ではなく彗星捜索仕様に仕上げたものだった。私は高校卒業後に本格的に彗星捜索にのりだすことを考えて、中学時代から捜天の難しい山あいの町で予行演習を兼ねた捜索活動を続けていたのである。

そのようなわけで私は友人と集まる場所ではよく宇宙の話をしていた。

ある時、クラスメートとそういった話に興じていると、一人の友人が割って入った。彼は、宇宙のことなどより週刊誌に取り沙汰される芸能人の恋愛記事の方が重要だと言った。

「人が人を好きになる。オレたちにとってこれより重大なことがあるのか。」

私にとって「夜昼転換」は重要事に思えなかったが、その友人にとって「宇宙」はそれと同類のものだったのである。

彼はそれまでも大人の世界で鍛えられてきたような考え方を度々示していたが、そのような者からすると、宇宙のことをいかにも重大事と決め込んでいる私たちが幼く見えたのに違いない。それで「高尚な宇宙」にわざと「下劣な週刊誌」を対比させてきたのだ。

宇宙が重要ではないと考える人間がいることに私は衝撃を受けた。

私は「夜昼転換」の彼にしたように、「宇宙がそうあるからどうだというのか」と自分を突き詰めはしなかったが、宇宙への熱情はしだいに失せていった。彗星捜索をやめて、私はそれまで明確であった生活の目的を見失った。