第一部 信仰論 | 星加弘文 |
宇宙を重要だと思っていた私は何を問われたのだっただろうか。宇宙に関心を持つ者が宇宙の重要性を問われることは、聖書に関心を持つ者が聖書が事実であることの重要性を問われることに似ている。
聖書が事実を述べているか否かはなぜ重要なのか― その答えがブルースが述べるごとく、聖書は事実を述べたものだからだというのでは身も蓋もない。
この問いが正統キリスト教とは何かという定義を尋ねるものならば、不親切ではあるがとりあえずその答えでよいだろう。「聖書が事実であることに」ではなく、「聖書が事実であることの重要性に」疑問を持つ人というのはキリスト教を「教え」だと思っており、それゆえに聖書の歴史記事の真偽を瑣末なものとみているのであることを指摘してやるということだ。
しかし「聖書が事実を述べているか否かは重要か」という問いは、実は聖書やキリスト教に向けられたものではない。それは我々の生き方に向けられた問いなのである。
ご利益主義に対抗する道徳至上主義によれば、我々の生き方は世界の事実に影響されるものであってはならない。というのも、神があるから善を為せと教える宗教は、もし神がないなら何が行われても仕方がないとも教えているに等しく、そのような教説は、少なくともカント倫理学に照らす限り倫理の名に悖(もと)るのである。
もしキリスト教が高邁な宗教であるなら、「世界がこうだからこうすべし」ではなく「世界がどうであってもこうすべし」と教えなければならないのであり、そのように世界のありように拠らない宗教として、すなわち事実依拠的ではない教説として、したがってその教説は「実際にイエスが教えたかどうかはまったく重要ではない」ものとして考えられなければならないということである。
このような種類の思想に立つ人の主張は、事実と信仰に関する価値規範そのものがキリスト教とは異なっている。
彼らは聖書の歴史記事が真実であったということがたとえ証明されたとしても「それがなんだ」と言うだろう。彼らは聖書記事を嘘だと言っているのではない。そんなものは嘘でも本当でもどちらでもよいと言っているのである。
ルネサンス期以来の信念に基づいて、科学と宗教の分離を基本思想とし、事実に左右されないことが信仰本来の正しい姿であると彼らは考えているのである。
このような理想主義的なあり方を当然とする人には、聖書の記事が事実か否かを気にする人は奇妙に見える。彼らには、世界の事実に左右されて生きるというその生き方が間違ったものに見えているからである。
したがって「新約文書の信頼性ははたして問題になるか」というブルースの発題は、これを問う人の背後にある「生きる姿勢」に関わるものであって、キリスト教の中心教義の何たるかを「福音」として示すだけでは扱えないものなのである。「ある人」は、キリスト教の中心についての見方――教えなのか福音なのか――を問うているのではなく、異なる二つの倫理の選択――理想主義的倫理と事実依拠的倫理――を我々に問うている。
そしてこれを問う人に、キリスト教は次のように答えなければならないだろう。それはこの問題を決着させる答えではないが、この問いを門前払いにすることのない、誠実なそして正確な回答である。
「聖書が事実であることは重要だ。なぜならキリスト教とはそういうものだからだという以前に、我々は世界の事実に適って生きることを良いこととしているからだ。その上で聖書が教えている世界が世界の事実であると思っているからだ。」
世界のありようを勘定に入れて生きるのが良いことなのか、それとも世界がどうあろうともそれに左右されない理想を掲げて生きるのが良いことなのか、そして、なぜそうなのかということ、これが事実に依拠した信仰を掲げるキリスト教の「信仰の事実依拠性」において問われているものなのである。
そこで、聖書を信じる者に聖書の真実性の意味を問うことは、宇宙に関心をもつ者に、なぜ宇宙についての見方が重要なのかと問うことと同じである。それはまた、種の末裔として存在する我々に、種の起源が重要な問題でありえるかと問うていることでもある。
私自身はどう答えるだろうか。やはり世界の事実を重要とみて「世界がそうある以上それに従って生きるのだ」と言うのだろうか。それとも「ある人」が言うように、たとえ究極の世界がどうであれ、神があろうとなかろうと、人類がどう生まれたものであろうと、聖書の記事が事実であってもなくても、そういったことに人生観を基づかせることを拒否して生きると言うべきなのか。
カント倫理学が示す人のあり方は、世界のどこにも助けがない中で一人完結しながら何かを保とうとしている人のようだ。私はかつての自分をそこに見る。
それが神学的には自ら正しさを保とうとする神を知らない罪人の姿であるということは承知している。だが哲学的には、外界からの制約を排し、ただ人間の良心と誠実を追求しようとする宗教に勝る倫理的姿であると理解されるのである。ただし次の点はどうだろうか。
たしかに世界がどうであってもそれに依拠しない生き方を掲げることは可能だ。しかし自分がどういう存在であれ自分はそれに関係なく生きるとは誰も言えないのではないか。カントの厳格主義倫理は、自己のこの「規定性」を見落としているだろう。
そこにキリスト教は「人は義務だけでは生きられない」と告げる。信念や理想をことさらに掲げることは、「サマリヤの女」のように絶望の印である場合がある。人は頑なさを捨てて世界や自身のありようにむしろ敗れるべきではないかと聖書は迫るのである。― これがキリスト教のカント厳格主義に対する答えなのかもしれない。