第一部 信仰論 | 星加弘文 |
こうして私はニーチェが嫌うこのキリスト教の提案を四十年前に受け入れた。しかし今もって信仰があればそれでよいと思っているわけではない。
教会には権威好きな人間が多いと感じる。大企業や高学歴を有り難がる社会的エリート指向への同調がある。
教会を訪ねた頃のことは、価値観が数十年も後退した世界に飛び込んでいった記憶として思い返される。それまで私には親しい友人が少なからずあったが、教会ではそのような友人を持てずにきた。教会は「世間」のように感じられた。
自分の罪を認め、その罪の解決がないことを知る信仰は必要なことだ。だが罪の赦しをもたらすイエスへの信仰が人の倫理意識を高める働きをするわけではないことはほぼ事実である。
イエスの筆頭弟子であったペテロはイエスをキリストと告白した直後「自分たちの中でだれが一番偉いか」を仲間と議論していた(マルコ9.34)。こういった世俗性は信仰では直らないようだ。キリスト教信仰の事実依拠的性格は、功利的であることを賢いこととする商売人のような原理を潜在的にもっているのである。
一方で、福音書に登場する人の中には、ナタナエルのように「偽りがない」とイエスに言われた弟子もあり(ヨハネ1.47)、また「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者(マルコ12.34)、慈しまれながらイエスのもとを去った富める青年(マルコ10.21)、真摯な問いを行ったニコデモ(ヨハネ3.1)といったイエスの弟子ではない人々がある。
これらの人が教会で良く語られることはけっしてないが、しかし彼らに対するときのイエスは穏やかであるように見える。
「自分を聖書の下に置く」というのは思考を麻痺させることでもある。加えてイエスやパウロの律法主義批判により、倫理・道徳はむしろ信仰の妨げとなると教えるためか、教会の人々の倫理意識は世間一般よりも低いほどである。
また、キリスト教倫理の中心はイエスが教えた「最も大事な戒め二つ」のうちの一つである「隣人愛」であり、それは自己の外へ向けた倫理であるので、自分自身に対するどのような倫理意識がキリスト教的であるのかは明確ではない。
神を信じ、人に親切に振る舞っていれば利己的な動機を抱えていてもそれが問われることはない。しかし「天に宝を積む」ということでさえ何か嫌な考え方ではないか。中世の教会には罪の免罪符があったが、現代の教会では信仰が倫理の免罪符である。
私の結論は次のようである。キリスト教信仰はその事実依拠性のゆえに取り替えのきかない唯一のものだ。「救い」にはこの信仰で十分であって他の道徳などはいらないということに同意する。
マタイ福音書の「労務者を雇うぶどう園の主人」(20章)、「花婿を迎える10人の娘」(25章)などのたとえは道徳的に読んではならないものだろう。そのような読み方をすると、気前のよいぶどう園の主人は不公平で、5人の賢い娘はけちであるように見える。
しかしこれらは「天の御国は」という言葉で語られ始めていることから明らかであるように、人の道徳ではなく神の救いについてのたとえであり、それが人の功績によるものではないこと、他の人に分けることのできないものがあるといったことが教えられているのである。
しかしこのように神の救いの絶対性と人の道徳がたとえ無関係であったとしても、キリスト教信仰の横には何らかの事実依拠的ではない倫理基準、例えばカントの「定言命法」が、あるいはキルケゴールの「主体的実存」などがあった方がよいと私は考える。
救いは天における場所を我々に確保し、その恩恵による地上での生き方を示しはするけれども、その事実依拠性の強い倫理は、かつてイエスの時代にユダヤ教律法がイエスから非難を受けるおかしな人々を生みだしていたのと似た状況を、現在の教会に作りだしているように思う。
「山上の垂訓」などのイエスの教えはなお事実依拠的なので、Essay 4の「ある人」が求めた倫理性は期待できないだろう。またキリスト教における旧約律法は、信仰へ至るまでの「養育者」(ガラテヤ3.24)、信仰の結果を「証し」するもの(ヤコブ2.27)という位置づけのため信仰者の指導原理にはならない。
コリント書第一には「信仰と希望と愛の中で一番すぐれているのは愛」と書かれていて(13.13)、倫理が信仰よりも上位に置かれているかに見えるが、この場合の「愛」は、信仰によって信じられていた世界がやがて訪れる終末において事実であったことが確定したという段で語られているものなので、やはり事実依拠的である。
それゆえ「救いの信仰」と「生きる姿勢としての倫理」は道を交えずに、救いは救い、生き方は生き方として別々に定めていくほかはない。
事実依拠的ではない倫理に生きるのが正しいのであれば、その道は見いだせそうに思える。実際にそう生きられるかは別としても、自分の中にそれは見いだせる気がする。しかし、何が事実かを知ってそれに従って生きるべきというのなら、その事実を知っているとする者から教えられるしかない。
改革派の祖ジャン・カルヴァンによれば、このとき究極の事実を知る/知らないということは倫理に関係がない。それを知るのはただ神の「選び」によることであって、その人が神の憐れみを受けているか否かによる。
すなわちこの「選び」は倫理を超えたことである。この教義の前に我々はただ厳粛にならざるをえないが、以下の意識は保ちたい。
我々は不条理が世界の悪しき面として存在していることを知っている。しかし不条理は、「救い」という、世界で最も良きこととされるものにおいても存在するということだ。それが「選び」の意味である。
たしかに生の原理の究極は倫理的なものではないのだろう。世界を支配するのは価値ではなく力であって、キリスト教もまたそれに与する宗教であることは、旧約聖書ヨブ記38章でのヨブの訴えに対する神の答に明らかである。
神はただ善なる者というのではなく、我々の創造者でもあって、被造物たる我々はその神の一存の下、裁きにかけられることが決まっている存在である。我々は親鸞の教えのごとく「地獄は一定住みかぞかし」
これをわきまえる限り、誰も、神による「選び」を恵みとこそすれ、その不条理を申し立てることはできないということである。
だがこれらのことを本当に信じたとして、非事実依拠的な倫理が軽んじられるいわれもないだろう。天に関わる情報は大事、しかし地上で我々が生きるつかの間の道徳も大事という二兎を追うことでよいはずだ。
それによって自分を良い者のように思うなどということもない。人の心が神の基準にはるかに届かないものであることは聖書からよく教えられており、道徳に対するある種の絶望がすでに植え付けられているからだ。
確かに、信仰と倫理の両方を抱えながら答えを突き詰めないというのは哲学的な議論としては不完全であり、生き方としては窮屈なあり方だと思う。しかしこれが、キリスト教信仰に徹すれば倫理を実現できると思えない者が出せる当面の結論である。
ただしそのような者は信仰とは別にある壮大な決意を持ち続けるかもしれない。若い頃に読んだあるコミックには主人公に阿修羅が登場する。その話に設定されたイエスの役回りはあまりに荒唐無稽で、すでに読み返すこともないが、彼、阿修羅王ならこんなことを言うはずと記憶する。
「イエスの神よ。民が羊、あなたが “よき牧者” とは笑止。牧羊者の生業は何か? 羊を欺く者よ。」
もしキリスト教の神が、自分の味方でありながら結局は――羊にとっての羊飼いのように――邪悪であることが判明した場合には、私もまた事実依拠的信仰を止めて理想主義に回帰し、なお真理を追い求める。それはニーチェ的というか漫画的だが私はそうしたいと思っている。功利的な世界が用意した目標や夢に向かっては生きないことを人生の絵のように決めていたかつてのように「人は何で生きるか」をもう一度そこで訊ねよう。