第一部 信仰論 | 星加弘文 |
「イエスは人々がいちばん深く求めてやまない欲求に逆らうような、何か特殊な動機を必要とするような生き方を彼らに求めはしなかった。」
「事実と無関係な理想をかかげて、現実よりもむしろ理想に導かれて生活すべきであるとすすめる人のことを理想主義者というならば、イエスはおよそ、このような理想主義者からはほど遠い人であった。彼は実在に関係して生きるように人々を促した。彼の道徳性が普通の人間の慣習と違っていたのは、彼の実在観がわれわれの普通の世界観と違っていたからである。」
「イエスは新たに求むべき目標も立てなければ、周知の目標に向かう新たな衝動をも与えることをしなかった。そのかわり、イエスの描いてみせたとおりの生き方をすることがありのままの世界に合理的に住むこととなるような、世界に関する新たな理解を与えた。」
上は宗教哲学者ジョン・ヒックの『宗教の哲学』の一節である。これによればイエスは、世界が神の恵みの下にあり、すべての人が神に愛されていると教えて、それゆえ明日を思いわずらうな、人を七度の七十倍まで赦せと説いたのだという。
イエスの倫理は幸福主義における行為と結果を逆転させた「恩恵主義」というのが適切であるようなものだ。幸福を得たいなら何々をせよではなく、すでに恵みの中にあるのだから何々をすべきということである。
ただしこの倫理は信仰を要求する。困難の中にある人にとって、この世界を神の恵みの注がれた世界とすることは、信仰によらなければ到底納得できるものではないだろう。
したがってこれはイエスの言葉への信頼なしには成り立たない難しい倫理なのだ。
しかし私は「イエスは人々がいちばん深く求めてやまない欲求に逆らうような生き方を彼らに求めはしなかった」という点に心を惹かれた。ことに「人々がいちばん深く求めてやまない欲求」というところである。理想や義務を掲げることは「深く求めてやまない欲求」というのではないかもしれない。
以前、教会の青年が「他の人はもっと切実」ということを私に言っていたが、彼らはそういった底辺的な求めをイエスに願っていたのかもしれない。イエスはその要求を自然なこととして受け入れている。病苦や孤独や恵まれなさは誰も望まない。切実な要求にイエスは答える存在であるということだ。
― そうであれば、私もまたそれを求める人間であることを否定するつもりはない。イエスが「あなたはそれを求める」と言うのであれば私はそれに肯くだろう。人に言わない願いは自分にもある。
ヨハネ福音書の「サマリヤの女」の箇所で感じたのはこのようなことであったかもしれない。
しかしここで私はなお翻り、そういった教えは、宗教が数多く存在する日本ではどこにでもあり、結局は利己性に結びつく御利益的教えにすぎないではないかとも思った。
旧約聖書ヨブ記にあるように、もしその人にいつまでたっても神の顧みがなかったなら、そして彼の倫理性が高められているのでなかったなら彼は役に立たない信仰を捨てただろう。
神の試練に弱り果てたヨブに、妻は「神を呪って死になさい」と言った。この悪妻の信仰がそれだ。カント倫理学は、単に幸福のためにのみ信じられているようなこういう世俗的な信仰と戦う倫理学なのだ、と。