第一部 信仰論 | 星加弘文 |
当時、私はカント倫理学に傾倒していた訳ではなかったが、『実践理性批判』およびそのカント自身による解説書である『道徳形而上学原論』を読んでも特段驚くところはなかった。
そこに難しく述べられていることはしかし当たり前のことであって、新興宗教の教典や「使徒信条」や「愚かな金持ちのたとえ」のような違和感に辟易することはなかったのである。
西荻窪の教会には私と同年の青年が一人所属していた。ある時彼にカントの話をし、そして「愚かな金持ちのたとえ」についての考えを語った。
彼は私に「君のような高邁な考えをもって教会に来てる人はいないよ。みんなもっとたいへんだと思う」と言った。
彼が「高邁」と言ったのか「高慢」と言ったのか、実はよく聞き取れていなかったが、いずれにしても良い意味ではなさそうだった。私は彼の返事を気に留めずにいたが、後にそれが思い出されるような聖書の箇所に出合うこととなった。
毎日曜の午後、私は牧師の聖書講義を繰り返し聞いているうちに聖書の「読み解き方」のようなものが分かってきて、しだいに自分で新約聖書を読むようになっていた。
マニ教から改宗したアウグスティヌスが初めて聖書を読んだ時のことを「その文体の単純なことに失望した」と『告白』の中で回想していたが、たしかに福音書の大半はただ読み通すだけでは味気ないし、書簡類もよくわからないところが多い。聖書という書物は教えてもらうか、自分で読み方を会得する必要があるのだ。
箇所はヨハネ福音書4章の「サマリヤの女」が登場するところで、章の3分の2程を占める長い記事である。
イエスは「ヤコブの井戸」と呼ばれる場所で、サマリヤ人のある女性に飲み水を求めた。倫理的に好ましい生活をしていなかったとみられる彼女は、イエスの言葉のいちいちに自分への責めを予感し、「自分は先祖から伝わるある希望をもって生きているのだ」と告げて、余計な関わりをしてくれるなということを遠回しに要求する。
イエスは彼女に語る。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。」
イエスの言葉には対決的な響きがあり場面は緊迫する。
― あなたは神の賜物を知らずにいる。知っていたらあなたはそれを求めるのだ。あなたの言う「希望」は本当にはそうではない。―
サマリヤ人というのは紀元前8世紀のアッシリア捕囚時代に、望まずしてその血統的純血を失ったイスラエルの人々のことである。この箇所には「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」と記されているが、イエスの言葉は、そのサマリヤ人としての彼女の痛みを思いやるどころか、彼らが保ってきた誇りを否定するもののように聞こえる。
彼女はイエスに言う。
「私たちの先祖はヤコブです。あなたはヤコブよりも偉いのでしょうか。」
「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」
「先生、私が渇くことがなく、もうここに汲みにこなくてもよいようにその水を私にください。」
かみ合わない受け答えを続ける女性に、イエスは「神はそのままのあなたを受け入れています」などという「癒し」を告げようというのではなかった。
「あなたの夫をここに呼んできなさい。しかし、あなたといっしょにいる人はあなたの夫ではない。」
イエスは問う。あなたに必要なことは慰めを受けることか、あなたの信仰が認められ誇りが保たれることか、そうではなくただあなたが神のみ前に出ることではないか、と。
サマリヤの女性は「水をください」と言うかの人が自分に何を求めているのかをここで知ることになる。
― もしあなたが神の賜物を知るならあなたはそれを求めるのだ。あなたはそういう存在だ。
― 私もまたこのイエスの言葉に肯くなら「サマリヤの女」とともに、これまで掲げていた信念の旗を降ろすのだろうか。―
牧師がいつも勧めるように、このとき私も「みことばを自分に適用する」ということを真似てみて「あぁこういうところなのだな」と思った。「あなたは神を求めるそういう存在だ」と言われているような気がしたのである。
ニーチェのどこかで読んだことがある。「キリスト教というのは人が弱ったところを見逃さず、そこにつけ入ってくる卑怯な宗教だ」と彼は書いていたのだ。パスカルはその最大の犠牲者で、彼はキリスト教のために数学の才能を無駄にしたとも言っていた。ニーチェのキリスト教嫌いはイエスの言葉を恐れていたためだっただろうか。