第一部 信仰論 | 星加弘文 |
当時の私の道徳観を表すものとしてI.カントの倫理思想を確認しておきたい。カント倫理学は厳格主義倫理と呼ばれ、一切の損得によらない行為を説くものである。
まず、カント哲学の大まかな構成は次のようである。
カントは理論理性と実践理性という2種類の理性を提唱し、理論理性は「存在するもの」すなわち数学や科学の対象となる一般的な認識領域を扱い、実践理性は「存在すべきもの」すなわち、われわれの意志によって実現されるべき道徳の領域を扱う。
科学的領域も道徳的領域も共に、それぞれの理性が、経験からの帰納推論(経験則)によるのではないア・プリオリな(=経験に依存しない)認識原理を持ち、そのことが科学と道徳における学問的確実さを保証するとした。
その認識原理は理論理性においては「ア・プリオリな総合判断」、実践理性においては「定言命法」であり、主著『純粋理性批判』と『実践理性批判』は、これら「ア・プリオリな総合判断」と「定言命法」がどのようにしてわれわれの中で実現されている(とカントは主張する)のかを明らかにしようとするものである。
実践理性についての以下の説明は、B.ラッセル『西洋哲学史3』
(カントの理論理性については「第二部 信仰と理性論」Chapter 4 で扱う。)
『実践理性批判』において、彼は「幸福」と「善」を分け、前者を本能が、後者を理性が担うものとし、道徳性を後者にのみ認めた。
「人を幸福にすることと善人にすること、人を怜悧にして抜け目なく自分の利益を図ることと人を有徳にすることとはまったく別である」
道徳とは、幸福を願う生まれながらの本能に対する、善を求める理性の側からの要求として定義される。
個々人がもつ幸福への要求である「格率」に対し、道徳法則の要求は「命法」と呼ばれ、その最高位のものが「定言命法」として導かれる。これは「汝の意志の『格率』が普遍妥当性を持ちえるように行為せよ」という命令である。
ある行為が道徳的である、すなわち「定言命法」に適うものであるためには、それが行われる際の意志や意図が、その行為の遂行そのものの尊さに対する尊敬以外にあってはならない。それによって別の目的が企図されているような行為は、道徳性をまとった幸福主義、功利主義であり、人間の欲望に奉仕する似非道徳である。
幸福の僕であるこの似非道徳は自己の「格率」に対し、「もし幸福を実現したければこれをせよ」という「仮言命法」の形式をとる。しかし個々人の幸福の追求は互いに阻害しあうので、すべての人が同一の「格率」を共有することはできない。したがってこの「仮言命法」は普遍道徳として成立できないのである。
「定言命法」のみを道徳として認めるカント倫理学においては、計算された行為はすべて道徳ではないから、事実認識や世界観が道徳に何らかの役割を果たすことは原理的に排除される。道徳に必要であるのは事実についての認知ではなく義務への尊崇であり、道徳はそれ自身行為の目的であって他の目的を実現するための手段ではない。
「道徳的法則はすべての理性的存在者にあまねく妥当すべきであるが、道徳的法則の普遍性と無条件的必然性とは、この法則の根拠が、人間の本性の特殊な構造や、あるいは人間が置かれている偶然的環境に求められでもしたら、すべて失われてしまう。」
「人間が道徳的法則を遵奉することによって持たなければならない心術は、法則を自発的な傾向やまた命ぜられないでおのずから好んで企てられた努力からではなく、義務に基づいて遵奉するということである。」
「純粋実践理性は、幸福に対するさまざまの要求を放棄すべく要求するものではないが、義務が問題となるや、幸福には全然顧慮してはならないと要求する。」
カントによれば、穏やかな性質に生まれついた人の善行は道徳とは呼べず、すぐれた愛の行為も、もしその人が神を信じていたのであれば残念ながら道徳ではない。
なぜなら、前者はその人の自然の性向に従っただけであり、すなわちそれが彼の快であったわけで、後者においてはせっかくの隣人愛が、神や天国への信仰という究極の実利的動機に基づいて実践されてしまったからである。