第一部 信仰論 | 星加弘文 |
こうして私は「使徒信条」に躓いた。ただし、キリスト教の信仰について一つはっきりしたことがある。
それはキリスト教というのは単に天上的な教義や道徳的な教えを信奉することなのではないということだ。この信仰には、イエスに関わる特定の出来事についての歴史認識が付随しており、その認識の上に、他の宗教と同様に天上的教義があり道徳的教えもあるということだ。
信仰に歴史認識が付随している理由はいまのところわからないけれども、
というのも、このような信仰においてはイエスについての事実認識が信仰に影響を与えると考えられなければならないからだ。
仮に、聖書に書かれているイエス・キリストが、歴史学的にみてその通りの存在ではなかったとしたらこの信仰の基盤は失われ、イエスの教えに従っていた人々は元の「木阿弥」に戻ることになるだろう。信仰が事実に依拠しているとはそういうことだ。
それまで私は信仰というのは地上のものであれ天上のものであれ、そういった「事実」に拠らず、ただ何か普遍的な価値とみたところの一定の信条を信奉することであると思っていた。
そうでなければ、たとえその「事実」が目に見えないもの、未だ来たらざるものであったとしても、それに依拠して成立した信念は、結局はそう信じることが得になるという動機を免れることができないと思われるからである。それは功利主義、幸福主義であって信仰の名に値しないのではないか。
見えていない事柄を本当のことと確信しているために保てる美徳というのは、動機が隠されている分、あからさまな商売繁盛ご利益主義よりも質(たち)が悪いと私には感じられるのである。
― しかしキリスト教信仰とはそういうものなのだろうか。その頃、牧師から聞いたルカ福音書のたとえ話はその疑いを増し加えるものに思えた。イエスは群集に向けて次のように語ったという。
ある金持ちの畑が豊作だったため、金持ちは困り考えた。「どうしよう。作物を蓄えておく場所がない。」「倉を壊してもっと大きい倉を建てて、穀物や財産を保管しておこう。」「そうすれば、これから先何年も安心して食べて飲んで楽しめる。」神は彼に言った。「愚か者。おまえの魂は今夜取り去られる。おまえの用意したものはだれのものになるのか。」(ルカ12・16―21)
ここで神が金持ちに対して「悪者」と言うのではなく「愚か者」と告げているところが功利的である。
彼が責められたのは目算高いことではなく、逆であって計算違いをしていることだ。ここでは、信仰によって物事の計算範囲を天上世界にまで拡張すべきことを教えて、人が抱く利己的動機はそのままにしながら、結果的に倫理水準を向上させることが目論まれているということなのだろうか。
だがこれは「がんに罹りたくなければ怒るな」という先の日本の宗教と同じ考え方だろう。「山上の垂訓」のような格調高い教えはどこへいったのかとも思うが、しかし思い返せば、すでに使徒信条で明らかな通り、キリスト教は終末の審きを唱える宗教である。ならば天上世界を勘定に入れるべきとすることなどは当然のことであるのかもしれない。
この「事実依拠的な教え」は「経験に依拠した道徳」というものとも違っている。
例えば、貧しく育った者が、その経験から動機を得て慈善事業やボランティアに勤しむことは悪いことではない。
また、町で見かけるどんな職業も蔑まれてはならないと考える人が、自分の父親もそういった職に従事していたことを思い起こすことでその心がけを保つということも否定されるべきことではないだろう。
このような道徳の獲得法は多くの人にとって実践しやすいものだ。
しかし「自分がそうだった」ことに依拠したこのような道徳は、その環境にはなかった人の不道徳を否定できないので道徳としては不完全である。
13世紀の聖フランチェスコは貴族の身分を捨てて貧者と共に生き、イエスは神の御姿でありながらそれを捨てて十字架に死んだとされる(ピリピ2.6)。これらにおいては、自分と他者を同一視あるいは似た存在とみることから生じてくる共感や同情などよりも優れた道徳性が認められるのである。
その限り、自分の経験から後押しされた道徳というのは、聖人とはいかない我々に許容された途上の道徳であるにすぎず理想からは遠いものといわなければならない。
しかし先の「愚かな金持ちのたとえ」は、このような自己に関係づけられた道徳というのでさえなく、むしろ何が自分の本当の得になるかを見てとり、それに適うように生きることを勧めたものだ。
私はキリスト教にも見切りをつけてよいかもしれないと感じた。
だがその前に一度、自分が抱く道徳観とキリスト教の倫理を対決させてみようと考えた。キリスト教のように事実と見たものに服するようにしながら、一方で勘定高く生きるのが賢く正しいことなのか、それともやはりただ理想に生きることを志すべきか。