第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
未証明であるような前提を持つか否かが哲学と宗教を分けるとする理解は「信仰と理性論」Chapter 2-Easy study 3に述べたところに照らして成り立たないように思われる。
すなわちデカルトが想定したような、最終的に未証明さが残らない完全に自明な前提などは存在しないともいえるし、また、後件肯定式の理論のように、未証明な前提を持っていても理論として成立するともいえる。
むしろ、経験の自明性や内的確信を出発点とする伝統的な経験論や観念論を確実な学であると考えることは、現代的理性観に照らして、前提に対する無自覚な態度とみなされる。
私は自身の論を理性概念に基づかせようとするが、それは「信仰と理性論」に向けられた二つの要請があると考えるためであり(「信仰と理性論」Chapter 1 - Section 3, 4)、理性的思惟が宗教的思惟に比べて無前提であることを理由とするものではない。
超越的な概念を含むかどうかを、哲学と宗教の区別とする考え方にも難がある。それは、「神」概念が哲学の伝統的な三大理念に含まれていることに明らかであるように、哲学もまた超越的存在者について常に語り続けてきたという事実があるためである。
また、超越的概念の有無を問題にするためには、何が超越であるかを定める内在との境界設定が必要だが、内在の側にのみ存在している我々にそのようなことができるのかが問題となる。常識的に考えて、境界線を引くためには、境界線によって分かたれる二つの領域――この場合、内在と超越の両方――にまたがる視点を持てなければならないと思われるが、そういったことは可能なのだろうか。
カントは、超越に関する推論を扱う「純粋理性のアンチノミー」論において、我々が世界の始源へと遡る思考を行うためには、今日(きょう)の世界の原因としての昨日、昨日の世界の原因としての一昨日というように、思惟の逆行において過去世界を順次獲得していくしかなく、「世界は決して全体として与えられ得るものではない」、「私は世界全体の量の概念を、経験的背進によって初めて構成せねばならない」と述べた。
カントのこの考えは、現代の「構成主義」(「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy study 5)の端緒となったが、これは、有限である我々に可能であるのは、内在世界の中にあってその全体が有限とも無限ともわからない不定の世界に対して、ただ背進的推論を行うということだけであり、しかし、その思惟は、ちょうど水面を目ざして泳ぐ魚がけっして水中を出ることがないように、超越との境界を知るものではないということである。
一方でカントは、その実在論的思惟において、内在世界を時間・空間・論理性・感覚などに制約された「現象」として規定し、超越世界には「物自体」の存在を想定した。しかしこれも「現象」と「物自体」の境界基準を示すものではなかった。
というのも(詳細は「信仰と理性論」Chapter 4で見るが)「物自体」は実在性においてのみ規定された概念であり、必ずしも「現象」がもつ時間・空間・論理性などの規定の否定として定義されてはいないからである。
「物自体」は「現象」の否定概念というよりは、「現象」規定から自由である概念なのである。したがって「現象」と「物自体」は世界を二分するものではないので、「現象」規定としての時間・空間・論理性などが、内在と超越の区分基準になるという理解はおそらく成り立たない。「現象と物自体の分離」として理解されているカント哲学においても、経験と超越の境界は明確ではないのである。
一般的にいって、我々の間に、可能な経験の範囲についての合意は存在していない。「信仰論」Chapter 2 - Essay 2 に述べたように、宗教的経験を経験のうちに数え入れる人もいるが、そのようには理解しない人もいる。プロテスタント教会を二分する「イエスの復活」に対する二つの見方はその典型といえるだろう。ある人々はそれを端的な事実と見るが、他の人たちはそれを宗教的な意義として理解しようとする。
カントは自然神学における神は認識対象にならないとしたが、
これを神概念の矛盾と考えるのは、ただカント的な神の定義を正しいとしているからであるにすぎない。我々は内在と超越の境界をどのようにも定義できるが、しかし、その定義によって、特定の存在者の認識可能/不能を定めることはできない。神を超越と定めてしまえば、それによってその神概念は我々の認識外の存在となるのは確かだが、しかし、実際の神がそういうものであるかどうかは全く別の問題だからである。
このことから、超越概念を用いるか否かを、宗教と哲学の区別とすることはできないと考えられる。
カール・ポパーによる「反証可能性」という、言明の有意味性に関する規準は、理論と教義の区分として使えそうに思われるかもしれない。すなわち、反証可能である主張を理論、反証不能である主張を教義に振り分けるということである。
これは「信仰論」Chapter 4 - Consideration 4に挙げた、N.R.ハンソンによる仮説の有効性に関する5条件の4つめとして登場していたものでもある。そこでハンソンは「その仮説が万能ではなく反証されうる可能性をもつこと」が、仮説が有効であるための条件であると述べている。これはどういうことだろうか。
ある言明が反証可能性をもつとは、その主張の肯定/否定が、観察可能であるような現実の差違に対応している場合のことをいう。そのとき、その言明は反証(誤りであることの証明)が可能であるゆえに、たとえ偽の言明であったとしても有意味な言明として認められる。
誤りである言明、例えば「両生類はへそをもつ」という言明が無意味ではなく有意味であるのは、その肯定と否定が明らかに異なる世界――へそのある蛙がいる世界と、へそのない蛙がいる世界という二つの世界―― を表現するからであり、いいかえればその言明の真偽は、観察可能である我々の現実世界によって検証も反証も可能なものだからである。
これに対して、「神が存在する」という言明を考えてみると、それが誤りであることを指摘できる可能性がないように思われる。というのも、神が存在するという前提に基づく世界と、神が存在しないという前提に基づく世界において、どのような観察可能な違いがあるのかが不明であり――病気や悲惨が蔓延するこの地上世界について、それでも神が存在するとも、やっぱり神は存在しないとも言えるように思われる――そのため、神の有無に関する言明は意味のない言明、すなわち真偽判定を行うに値しないナンセンスな言明と判断される。
しかしながら、この「反証可能性」という規準は、「観察可能性」という経験的検証に依拠するものであるために、先に述べた何が超越かという経験範囲の定義困難性による曖昧さを免れていない面があると思われる。
例えば、「目には見えないが細菌という小さな生物が存在している」との主張がなされるとき、その主張には、目視による検証はできないが顕微鏡を使えばできるのだ、という「検証範囲の拡大の要求」が含まれていると理解されなければならないだろう。検証範囲を目視に限るということの方が、存在物に関する不適切な検証といえるからである。
したがって、この「検証範囲の拡大の要求」を正当なものと認めるのであれば、神の存在が論じられようとしている場合には、その議論においては、神の存在に対応するよう検証範囲の拡大の要求が含まれていると考えられるべきなのである。それは、「終末」であったり新約聖書に記されているような、当時の人々における何らかの神秘的経験であったりするということであるだろう。
しかしこのことは、反証可能/不能の決定問題を、先に述べた、最終的に何が観察可能なのかという、我々の経験の範囲についての問題に行き着かせるように思われる。そして、経験と超越の境界基準に合意が得られないとき、反証可能性の基準もまた定まらないことになるだろう。したがって、この反証可能性を理論と教義の区分として用いることはできないと考えられる。
上に述べた「経験の範囲」や「反証可能性」の問題は現代哲学の主題でもあり、ここに十分なことを述べることはできない。そこで私は哲学と宗教に関して、次の区別を提案したいと考える。
それは、論述に含まれる複数の主要概念において、それらの概念間に前件肯定や後件肯定などの導出関係が成立しているものを哲学理論、それらの概念の真であることが実質的に、同時に並列的に主張されているものを宗教教義とするということである。
例えば、主要概念が二つであるような論述において、「AならばB」という導出関係が示された上で、前件または後件の肯定により、その論証全体の真であることが主張されているものは理論であり、導出関係をもたず、あるいは導出関係がきわめて希薄、ないしは物語的であることによって、実質的には「AかつB」が述べられており、その個々の概念の真であることがパラレルに主張されているとみられるとき、それを教義とみなすということである。
キリスト教を含め、どのような宗教教義も単にバラバラの教えの寄せ集めであるということはない。教義内の個々の教理は、それぞれ他の教理との連関のうちに「これこれゆえにこうだ」という導出関係をもって述べられている。
例えば、キリスト教教義は「人間は神に反抗したゆえに堕落し罪ある存在となった」と述べる。そこには一見、導出関係があるようにみえるが、キリスト教の教えは、なぜ理論ではなく教義といわれるのだろうか。それは、この言明が以下の状況にあると考えられるためである。
上の言明は、通常、次のように提出される。「われわれ自身を省みれば罪を犯さない人間はいない。これはなぜか。聖書は次のように教えている。神が存在し、人間を造り給うたが人間は神に反抗してその恵みから落ちてしまった。それがいま、われわれが目にする自身の姿である。」
ここに登場する複数の概念間の関係をみると、まず、(c)観察可能である「自分の罪の状況」の認知から出発し、それを説明するものとして、(b)人類の普遍的状況としての堕落が述べられ、その堕落を引き起こした背景として、(a)神の存在と人間の創造が語られるというふうになっている。ここで、この論述の形式をc→b→aで表現することにする。
この教義に説得性があるとみるためには、これを次のような論証が行われているものとみる必要がある。すなわち、cからbへの部分では、「もしすべての人間が堕落しているならばわれわれ自身も罪を犯す。そして現にわれわれは罪を犯す存在である。」という後件肯定論証が行われおり、すなわち「bならばc、かつc」ということである。
しかし、「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy Study 3 に説明したとおり、この後件肯定形式の論証は、前件の真偽について蓋然的な証明しか与えない論証である。我々が罪ある存在であることが間違いのないことであるとしても、それは必ずしも神の恵みからの堕落ゆえであることを意味してはいない。人間は生物進化の過程で、邪悪であることが有利であることを学んだ、といった進化論的説明によっても、現状の罪深き状態を説明することができるのである。
bからaへの議論をみても事情は同じである。その結果、この堕落教義全体の論証形式は、「aならばb、bならばc、かつc」となるが、このとき真であることが確かであるのは、観察に基づくcのみである。bは真偽いずれの値をも取り得るし、aはbよりもさらに偽である可能性を高くもちながら真偽いずれでもありえることになるだろう。
つまり、我々が、罪の状況にある自分を認めたとしても、それは必ずしもキリスト教による説明を真とするものではなく、論理的には、他の宗教教義や進化論によっても説明されうるものである。あるいはそのどれもが誤りであるということも考えられる。
そうすると、この堕落教義を上のような後件肯定論証、すなわち、蓋然的ではあるにせよ、なお論証形式を保持している言明、つまり「理論」であるとみることには限界があると考えられなければならないだろう。
論証が上のようにc→b→aのわずか二段階であったとしても、最後に位置する概念aの信憑性は相当程度不確かである。後件肯定論証では、その論証過程が一段増えるごとに、後件を説明しうる前件の選択肢は幾何級数的に増え、前件の不確かさは飛躍的に増大するからである。
それゆえ次のことがいえる。それは、もしキリスト教の堕落教義全体を確実な真理であるとみる必要があるのであれば、これを後件肯定形式の言明、すなわち理論としてみることは不適切だということである。また、当然のことながら、これを前件肯定式の理論、すなわち神の存在と人間の創造に関する何らかの「明証性」から出発して、人間の堕落を演繹する理論とみることもできない。
したがって、キリスト教の堕落教義を絶対に真実なものと考えようとするのであれば、これを「aならばb、bならばc、そして現にcである」という後件肯定論証において述べられたものとしてではなく、端的に「aであり、かつbであり、かつcである」が主張されたもの、とみなければならないのである。
それは、a、b、cの論理上の連関に関わりなく、とにかくa、b、c各々の真であることを並列的に主張するものである。つまり、神は存在し、人間は堕落し、われわれの現状は罪深い、とそれは主張しているのである。
実際に、キリスト教教義はこの状況にあり、
このことは、先にも挙げたハンソンによる仮説の有効性の5条件の5つめ「その仮説ができるだけ単純であること」にも関係していると考えられる。理論には、より少ない前提でより多くの事柄が説明できることが求められているということである。
つまり「aならばb、bならばc、そして現にcである」という後件肯定論理では、仮定はa一個だが、例えば「aであり、かつbであり、現にcである」というパラレルな主張ではa、b二個の承認が求められており、これを有効な理論として認めるためには、それ相当の有用な帰結を複数得ることが必要となる。したがって「aであり、かつbであり、現にc」を理論とみるための敷居は高いのである。
この理解の上で、ドーイウェールト哲学を判断するとどうなるだろうか。ドーイウェールト哲学には二つの大きな超越論的概念が含まれている。「宗教的根本動因」も「構造的所与」も、それぞれ独立した議論としては説得性をもつといえるが、それら両者の関連はどうだろうか。
すなわち、「宗教的根本動因」から思惟根源としての「自我」、「自我」から「理論的/非理論的態度」、そして「15の法領域/素朴経験」、さらに「構造的所与」へという流れが、論理的な導出関係をもつかどうかは極めて怪しいと私は考える。
この判断についての検証はここでは省略するが、