第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
次に、ドーイウェールトの理論が、信仰と理性の問題を解決したのかを検討したい。先に「対立の原理」が提示する解決法について「それしかないのか」と問うたが(Section 2)、ここでは「ほんとうにそれで解決したのか」を問いたい。
ドーイウェールトが一貫して問題としたのは「理性の自律」ということである。理性の自律とは、先に引用したように、理性が真理を正しく洞察できることに対する根拠のない信仰をいう。
それは宗教性からの自律であり、その結果として自然に対する理性支配、
哲学に蔓延するこの「理性の自律」に対して、ドーイウェールトは「宗教的根本動因」を、理性の源としての「自我」の規定概念として導入することで、カイパーから受け継いだ「対立の原理」に存在論的根拠を与え、これによって問題の解決を図ろうとした。
ここで「解決」というのは、理性的思惟の成立を説明するために「宗教的根本動因」および「構造的所与」概念を、それぞれ古典哲学の考察と経験的考察から導き、それらを理性的思惟の前後に文脈的背景として設置することで、理性を非自律とみなす存在論を整えたことを指す。
しかし、それは「理性の自律」を否定するための一つの解釈的設定であって、その解釈すなわち仮定は、前段に述べたように、いわば教義のようなものであるから、その仮定の妥当性そのものに、この哲学の有用性があるのではないと理解される。
ドーイウェールト哲学において重要であるのは、存在論を駆使したその理性解釈が、当初の問題を解決したのかどうかということである。ここでもハンソンの「仮説が有効であるための5条件」に登場を願うが、その2番目は「その仮説が当該事象に関する未解決問題の少なくとも一つを解決すること」というものであった。
ドーイウェールトの解釈学的哲学は仮定を有する後件肯定式型の理論なので、上のハンソンの条件が満たされる必要がある。このことから、ドーイウェールト哲学の有用性は、仮定そのものの妥当性ということではなく、その仮定に基づく仮説において、いかに問題が解決されたか、すなわち「理性の自律」によってもたらされたとされる先の二つの問題がほんとうに解決されたのかというところにあるのである。
もし、彼の理論が問題を解決しているなら、理論仮定としての「宗教的根本動因」や「構造的所与」もまた、その正しさが認められるものとなるだろう。しかし、以下にみるように、問題は全く解決していないと私は思う。
経験における理性の全面支配についてのドーイウェールトの解決は、理性すなわち思惟の理論的態度というものが、「素朴経験」の一部を抽象して認識している状態にすぎないということを存在論的に説明することによって行われている。ドーイウェールトは、アリストテレスが「理論的思惟の自律に関するドグマ」によって理性の自律的形而上学を可能とした点を批判して次のように述べる。
「彼(アリストテレス)は、思惟の論理的機能の、われわれの時間的経験のすべての他の諸側面からの分離が理論的抽象の結果にすぎず、したがって、総体的実在性とは一致することができないということを理解しなかった。」
また、理論的思惟は、ただ教義神学――心における神の像の問題、創造と罪の関係、特別啓示と一般啓示、キリストの二性一人格論等
「神学に関して言えば、このことは、神のみことば啓示が、決してそれがわれわれに示される十全的実在性において神学的研究の理論的対象になりえないということを意味している。その中心的宗教的意味においては、みことば啓示は神学的反省の対象としてではなくて聖なる霊的力として、われわれの存在の宗教的中心としての心に語りかけるのである。」
思惟の理論的態度とは、構造的所与における論理側面を意図的に非論理的諸側面に対峠させた状態であり、そのとき得られる認識は、構造的所与の抽象であるからそのすべてであるわけではなく、また理論的態度をとらないときの経験である「素朴経験」の全体ですらない――確かに、理性認識を「構造的所与」全体の把握とは認めないとすることで、ドーイウェールトのこの認識観は、理性の全面支配を免れたといえる。しかし、そもそも「理性の全面支配」は何故に問題だったのだろうか。
経験や自然に対する理性の全面支配(包摂)がキリスト教において深刻な問題であるのは、それが「啓示」という理性を超えたキリスト教事象を経験の中に含ませることを不可能にさせるからである。また、仮にそういった事象が我々の経験に含まれるという譲歩が認められたとしても、それは理解可能なものとしてではなく、記述したり伝達したりすることのできない神秘的なものとしてのみ許される、ということを帰結させるからである。
カントは、経験に対する「悟性の包摂」という認識観によって学的認識の確実さを保証したのだったが、その引き替えとして、理解可能なものとしての宗教的事象を排除した。つまり「理性の全面支配」という問題の本質は、この理性領域からの宗教事象の排除ということにほかならない。先にドーイウェールトによって挙げられていた「理性の自律」がもたらす第一の問題「理性の全面支配」は、第二の問題「超越領域との分離」と必然的に結びついているのである
したがって、理性認識の範囲を縮小し、第一所与たる「素朴経験」に対する「理性の全面支配」を免れさせたところで、そのように縮小された認識において、信仰領域がやはり理性領域から分離しているのであれば、この目論見は理性と信仰の分断に対しては何の解決にもなっていないことになる。
事実、先のドーイウェールトの引用文(A)は、理性認識が構造的所与の一部の認識にとどまることを述べるものであるのに対し、引用文(B)は、その理性認識の中に、超越的事象が含まれないことを述べたものであって、ここに理性と信仰の分断が堂々と是認されている。
改めて指摘しなければならないことは、ドーイウェールトは15の構造的所与の一側面に「信仰側面」を含ませており、これにより神学の可能性を確保しているが、それは引用文(B)にあるように、単なる学問としての教義神学に限られたことであり、我々の理性は、「神のみことば啓示」など、「救い」に関わるキリスト教の最も中心的である事象とは関われないことが断言されていることである。
しかしF.シェーファーによって述べられた「絶望の境界」
その断絶の回復手段が、実存(ブルトマン)や、神との人格的交わり(ブーバー)といったことに限らず、神のことば(カール・バルト)や、聖霊(ドーイウェールト)という、極めて信仰的とみえるものであったとしても、それらは絶望の姿なのである。なぜなら、我々にとって最も重要とされる事柄を、我々は理解できないとされているからである。
ドーイウェールトは、当論考「信仰論」Chapter 3、Chapter 4に述べた「隔絶性」や「過去性」など、キリスト教の救いに関わる中心事象に含まれる理解困難性を、宗教事象に当然のことながら存在する神秘的な意味での理解不能性と同一視することで、カント的断絶を自らの哲学の中で承認してしまっている。しかし救いに関わる神の啓示は理解可能なのであって、それを明瞭にするのが「信仰と理性論」の役割であるべきなのである。
私はカント認識論が非常に深くドーイウェールト哲学の中に入り込んでいるのをみる。すなわち、カントにおいて信仰領域が完全超越であったのと全く同様に、ドーイウェールトにおいても、信仰領域は理性的認識から完全に分断した位置づけを与えられている。
以下の記述からは、ドーイウェールトが、カント認識論の要である内在と超越の分断構造を、何のためらいもなく受け継いでいることを知らされるのである。
「われわれはまず最初に、神とわれわれ自身の真の認識がすべての理論的思惟を超えるものであることを確証したいと思う。この認識は、教義神学の理論的対象でもキリスト教哲学の理論的対象でもありえない。それは神のことばと聖霊の働きによってのみ、心のうちに、すなわち人間の全存在と経験の宗教的中心・根元のうちに、得ることができるのである」
「イエス・キリストにおける真の神認識と真の自己認識は教義神学的な性質のものでも哲学的性質のものでもなくて、絶対的に中心的宗教的意義を持つものである。」
あるいは保守派を含め多くのキリスト者は、ここにドーイウェールトの敬虔を見るのかもしれない。しかしこれはカント由来の敬虔である。神認識と自己認識が理論的思惟を超えたものであるということはもちろんそのとおりであって、我々の誰もがそう理解していることである。理性がすべてを認識できるなどと考える者はいない。
その意味では、理性と信仰には境界線が引かれるべきであり、理性によって捉えられない信仰領域の存在が認められなければならない。しかしその境界は、上でドーイウェールトが述べているような、信仰を全くの理解不能に置く境界であってはならないのである。
Chapter 3 - Section 1-4 に示したが、私の理性―信仰論では、信仰と理性の境界はイエスが教えた「天上的教え」や「三位一体」などの聖書教義との間に存在している。それはキリスト教の神秘性を保ちつつ、しかし信仰を理解不能にする境界ではなく、また信仰成立後も存続し続ける境界である。それにより信仰の理解可能性への探求の余地が残されつつ、理性と信仰の区別は保持される。
したがって、何が理解可能であるかについての私の考えはドーイウェールトとは逆である。
キリスト教の中心事象である「神のみことば啓示」は、「信仰論」Chapter 3に示したとおり我々にとって理解可能性をもつのであり、むしろ彼が学的認識と呼ぶ「心における神の像」「キリストの二性一人格」といった教義学的主題こそ理解不能なのであって、これらについてはただ聖書がそれについて何を述べているかを整理するという以上のことはできないと思われる。いずれにしてもこれらは理解の対象ではなく、信仰成立後に「受け入れる」信仰上の事柄なのである。
繰り返すが、問題は、学問すなわち理性的理解が「救い」に関わる事柄について完全に疎外されていると考えられなければならないのかということである。ドーイウェールトはそうだと言い、「神学的認識の中心的原理と教義神学的思惟の学的対象」は区別されるべきで「神のことばと神学」も区別されるべきであると述べる。
これらの「伝統的混同が神学を偶像化させた」とも述べている。
ドーイウェールトのこの考え方は、多くの神学者たちを失望させるものでもあるだろう。彼自身「神学の軽視」という批判があることについて触れている。
H.ツァールントは、神学の課題を「かつて起こったことをわれわれにも起こるようにすること」と述べている。
二千年前にイエスの弟子たちに起こった信仰を現代に可能とさせること、それが神学の最終課題であると考えて、彼らはこの学問に勤しんでいる。そしてその目的の大きな障害となっているのがカントによる「内在―超越」の分断であり、ドーイウェールトが解決しなければならなかった「本丸」もこれであって、「理性の自律」はその「外堀」にすぎなかったはずなのである。
「信仰論」Chapter 3では、ペテロによる最初の「復活宣教」すなわち「ケリュグマ」が、ブルトマンがそう考えたような、「人であり神であるイエス」という「逆説」を人々に突きつけて実存的決断としての信仰を求める、というものではなかったことを明らかにした。その誤りは信仰が主体的決断によって獲得されると考えられている点にもあるが、それ以上に重大な誤りは、「復活宣教」が理解不能な逆説命題の提示として行われたとされている点である。
しかし、この点でドーイウェールトも同じ誤りを犯しているといえる。福音の受容が、ブルトマンのように主体的実存によってであるにせよ、ドーイウェールトのように聖霊の働きによってであるにせよ、いずれにしても、これら両者は、「救い」に関わる福音を理解できないもの、我々人間の理性が関われないものとしている点で同じである。
しかしながら「使徒行伝」に残されたペテロの「復活ケリュグマ」の記録をみるとき、彼が「イエスの復活」を、人々の理解に訴える論証として宣教しようとしたのであることは明らかである。
私はドーイウェールト哲学に対し、理性が本来の宗教性から自律して真理を見いだせると主張しているという、そういった「理性の偽装自律」が問題なのではないことを告げねばならないと思う。理性が真理を見いだせると思い込んでいることが問題なのではなく、理性が信仰を見いだせないでいることが問題なのである。
理性が信仰を見失うことのゆえに、理性は信仰の代替物として、道徳を(カント)、宗教感情を(シュライエルマッハー)、神秘を(聖霊主義・人格主義)、歴史を(ヘーゲル)、実存を(キルケゴール)、神のことばを(バルト)、そして理性自身を究極物として自律しようとしたのである。
それゆえ問題の解決に必要なのは、理性の自律をとがめることではなく、また、理性に対し「お前の本質は自律するところにはない」といって世界の構造を説き聞かせ身の程を知らせることでもなく、理性に宗教を会わせてやることなのである。
A.ジイドの『狭き門』では、ジェロームの不安はアリサにしか消し去ることができないのだが、同じように、理性にもたらされた不安は信仰との邂逅によってしか解決できない。我々の理性認識においてキリスト教の根源に触れることができ、それを理解でき、伝達できるということ以外に、カント的分断としてのキリスト教の絶望を解決する道はない。次章ではそのカント的分断の解決に取り組む。