第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
さて、ドーイウェールトは体系の概観を述べ終えた後、自らの哲学を「独断論ではないか」と問うている。
「…これら二つの講義〔一章と二章〕においてわたしが簡単に説明してきた哲学の超越論的批判でさえも、わたし自身の言う宗教的出発点から独立的ではありえなかったことを意味している。このことはわたしの説明の結論において疑いもなくわたしに問われるであろう二つの批判的質問を惹起する。第一。この批判主義はいかにしてあなたの宗教的出発点を受け入れない人びとにとって決定的な力を持ちうるか。――」
これに対して、ドーイウェールトは「構造的所与」概念の普遍性がそれを果たすとする。
「構造的所与は、その哲学的解釈にかかわらず認められるべき超越論的意味を持つ事実である。」
「あらゆる哲学の共通条件である人間経験の構造的秩序内の真の事態」
「これら(構造的所与)は超越論的所与であり、かかるものとしてあらゆる哲学に対する一般的妥当性を持つ」
「この秩序の中に見いだされるあらゆる事態は、あらゆる哲学的理論に対する超越論的所与であり、経験についてのおのおのの哲学的全体観はこれらの所与によって吟味されるべきである」
しかし、このように普遍性をもつことが強調され、他のすべての哲学の試金石として考えられるべきとされる「構造的所与」は、ドーイウェールトにおいて最初から前提されていた概念であったとも述べられる。
「この構造的事態についてのわたしの説明は、経験様式相互の還元不能性を含意しているわたしの超越論的根本理念(宇宙理念)によって、初めから支配されていたことは確かである。」
続けて、
「この超越論的理念はまた聖書的根本動因によって支配されており、この動因が、時間的秩序の相関的様態の絶対化を原理的にあばきだすものであることも確かである。」
と述べられる。ここに、ドーイウェールト哲学が、自ら懸念する「独断論」であることは如何ともし難いものであることは明らかである。「構造的所与」と「宗教的根本動因」という聞き慣れない二つの概念がドーイウェールト哲学の前提である。
しかしながら、「独断論」というのは古い言い方でもあり聞こえも良くないが、現代の用語で言えば「実在論」であり「解釈学」であって、これらについては「信仰と理性論」Chapter 2-Easy study 3, 4に概説したとおり、仮定を用いて事態を説明する後件肯定論理による理論として、現在では有効な論の立て方であることが認められている。
したがって、ドーイウェールト哲学が、キリスト教的仮定に基づく「独断論」であることは、この哲学を拒否する理由にはならないと理解されなければならない。むしろ問題は、独断論の形式をとっていることではなく、その形式における独断の度合いがどの程度のものなのかということにある。
すなわち、ドーイウェールト哲学に前提として導入されているキリスト教的存在論は、哲学の仮定としては大き過ぎるのではないかという懸念がある。
「何でも説明できる」というのは宗教の特徴であって、全世界を説明してみせることは哲学としての真理の印ではない。少ない前提でより多くの事柄を説明できるということであれば有用な理論でありえるが、少数の困難を解決するために、大がかりな前提をいくつも受け入れなければならないというのであれば、その状態は元の状態よりも悪いのである。
ドーイウェールト哲学の「独断性の度合い」を、同じく超越論哲学であるカントの批判哲学と比較してみる。
「超越論的」という語は、カントが『純粋理性批判』の各章のタイトルにことごとく冠した語であり、カントにおいても基本的には、理性そのものを批判するメタ理性の立場を意味する語である。しかしドーイウェールトも述べる通り、カントの場合はまさに「その出発点を理論理性の中にのみ選びとり」
これに対して、ドーイウェールトの場合は、先の引用にあるとおり、むしろ理性が自身の境界を超え出ようとしないことが哲学が誤り続けてきた原因であると考えられており、西洋哲学における「理性の偽装自律」という前提を問うために、「質料―形相/自然―恩寵/自然―自由」という、宗教的性格を持つ概念が用意され、これらの「異教的根本動因」から諸思想が解明されることになる。
つまりドーイウェールト哲学は解釈学であるわけだが、このとき、解釈背景として設定される「宗教的根本動因」という超越概念の使われ方がカントとは違っている。
カント哲学における超越概念は、存在しつつもそれを知ることができないという「物自体」のことだが、この概念は、経験的対象とそれを認識している我々の主観という、二つながら日常的であるところの事象に対してまたがる超越論設定――「超越論的」とは元来、アリストテレス哲学の概念で、二つ以上の概念にまたがって使用できるような概念のことをいう
そしてこの「物自体」という概念は、我々にとっても理解可能なものといえる。経験は、我々自身の主観を経て成立しているので、経験において得られる対象は主観が持つ認識能力の影響を受けたものとして成立することになる。したがって我々の経験は、物そのもの(物自体)を獲得しているのではなく、それゆえ物そのものの存在は、現に経験されている対象とは別に考えられなければならないことになる。
これがカントの「物自体」についての考え方であり、むしろ常識的な考えといえる。
確かに『純粋理性批判』での物自体は、「アンチノミー問題」を論じる箇所で、推論の前提として使われることになるが、その箇所は「超越論的弁証論」と名づけられている。これは物自体が重要な役目を果たすこの議論が「弁証論」、すなわち蓋然的な議論であることを明確にすることで、理論前提としての物自体概念に節度が与えられているのである。
またこういった事情のために、カント後に始まる「ドイツ観念論」の学派においては、「物自体」が不要な概念として体系から取り除かれ、現象学的方向へ進むということも起こりえたのである
一方、ドーイウェールトの体系では、経験と哲学史に関する独立した考察によって、「構造的所与」および「宗教的根本動因」の妥当性についての了解を取りつけつつ、これらの宇宙論的、宗教論的概念が、全理論の中心的役割を果たすことになる。そこでの超越論概念の理論に占める比重は、カントの場合よりもはるかに大きく、これへの同意なしには、ドーイウェールト哲学を了解することはとうていできないものになっている。
春名純人はドーイウェールト哲学を次のように代弁している。
「神の思惟は根源的であり、人間の思惟は類比的である。(中略)キリストによって贖われたものとしてのキリスト者の事実存在の法(法則)と事実解釈の法(論理)は、理性が自律的に定立するものではなくて、神によって与えられている被造的秩序と構造を神によって与えられている解釈にしたがって見出だしていく(再解釈)ことにある。」
カイパーからドーイウェールトへと連なる一連の「対立の原理」思想をまとめれば確かにこのようなものになるだろう。しかし率直に言ってこれは哲学なのだろうか。このような考え方を宗教というのではないだろうか。
これが、私がドーイウェールト哲学に抱き続けてきた疑問である。上に述べられていることは、もちろん理解可能である。しかし私の考えではそれは信仰に分類されるのであって理性的理解というものではない。
このようにも言われるかもしれない。「だからこれは、哲学や宗教という古い分類には収まらない新しい理解の仕方であり、キリスト教的世界観あるいはキリスト教的解釈学と呼ばれるのだ」と。このことも私は理解する。
それは「信仰と理性論」Chapter 2に概説した後件肯定論理による世界解釈の体系である。しかし問題は、それがどのような名称で呼ばれるにせよ学たりえるのかということである。春名の引用に見られるような理解の仕方を学問というのであれば、宗教や信仰は学問ということになるだろう。だがそういった理解は、明治以前、日本で学問といえば、多くは寺に行って仏法を学ばされていたそのような時代に逆戻りすることではないだろうか。
そこで改めて問うてみたいが、ドーイウェールト哲学は哲学なのだろうか。それともキリスト教の単なる哲学的表現とみられるべきものなのだろうか。
こう問うてみると、その判断の容易ではないことがわかる。それは哲学と宗教を分ける基準を問うことだからである。以下に、この基準についての考えを述べてみる。