第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
前節では、保守キリスト教が提唱する信仰と理性論の一つである「対立の原理」を紹介し、それを不適切と考える理由を述べた。「対立の原理」は、人々が持つ考えをすべて実在論的思惟として捉えているため、キリスト者と他者との認識の共有が許されなくなり、非常に強い分離主義に至っている。その一方で、信仰者内における信仰と理性の区別が見失われている。
以下に紹介するH.ドーイウェールトの思想にも含まれるこの「対立の原理」という考えは、キリスト教哲学という学問における思想であるため、一般の信徒にはなじみのないものである。しかし普通のキリスト教信仰者が、これに似た考え方を日常的に行っていることはかなりの程度認められる。
というのは、これはいわゆる「信仰的」な考え方だからである。聖書に述べられていることを事実と信じる者が、その世界観を自分の回りの出来事に敷衍しようとするのは当然のことともいえる。
しかし、聖書があらゆる問題についての根本的な指針を示すものと考えられるべきである一方で、特定の問題に対する解決を、聖書が常に与えるわけではないことも確かである。
心を病んで教会を訪れる人の中には、福音よりも医療的ケアを必要とする人がいる。そのような人にとっては聖書のことばが万能であるわけではなく、逆にその用い方によっては事態をより難しくさせる場合もある。
学問においても似た状況があり、聖書原理に遡ることで思想上の特定の誤りがいつも正しくあぶり出されるということではない。例えば、論理上の誤りは、ただ論理の誤りとして指摘されることが何よりも必要である。
しかし「対立の原理」には、誤りの原因を常に宗教的な根源性に見ようとする思想的短絡性がある。このような解決の提示に対しては「解決はそれしかないのか」ということが問われなければならない。
以下に、H.ドーイウェールトにおける「対立の原理」を考察し、キリスト教的立場による思想のあり方、すなわちキリスト教哲学について、それがどうあるべきかを考えてみたい。