第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
さて前段では、信仰状態と未信仰状態が、共に何らかの前提性を免れていないにしても、両者は区別されるべきであることを述べた。しかし、これによって「対立の原理」の主張を根本的に退けたとすることはできない。「思惟は信念に規定される」とする「対立の原理」の考えの核心は、思惟の前提たる信念にまで遡って問題を解決すべき、ということだからである。
したがって、未信仰者を、実在論未満という消極的な立場にあるとする、いわば宗教的に中立にあるとするような前段での捉え方は、「対立の原理」が批判する典型的な考え方に含められることになる。
思惟の前提を問う意識は、カントの批判哲学に著しいが、二十世紀においてN.R.ハンソンが「観察の理論負荷性」という考えを提出したことが、これを普及させる契機になったといえる。
「観察の理論負荷性」は、科学という客観的かつ無作為的と考えられてきた分野の行為が、実際には、先行する先入見なしには成立しないことを告げるものであった。観察や実験は、それがあらかじめ計画されたものである限り、理論的負荷を免れないとされる。
それだけではなく、一般に我々がものを見るという場合、それを単に眺めるという事態は存在せず、必ず、それを何かとして見る、すなわち「~として見る」という解釈付きの見方をしているとされ、未解釈であるような客観的原事実というものは存在しないとされる。
こういった、「部分」をそれ単独で考察するのではなく、全体との関連において捉えようとするいわゆる「有機的」な見方は現代学問の流れでもある。
語ではなく文を基本単位とし、語を文の中ではじめて意味をもつものとみるG.フレーゲの「文脈原理」は、命題論理を述語論理へと発展させた現代論理学の画期的考え方であった。また、一つの文(テキスト)を、そのさまざまなコンテキスト(文脈、背景)から自由に意味づけ可能とみることは現代解釈学の基本的方法である。
このような有機性、全体性を重視する現代の学問観の中で、我々の理性もまたそれ単独で論じられるべきものではなく、そこにさまざまな前提の関与があるとみることは適切なことである。
しかし、いまや誰もが「前提のない思惟は存在しない。中立な意見はない」と考えるに至っているといってもよい、この現代の常識が、どのような場合に我々の理解を深めるものであり、どのような場合に言わずもがなの主張であるのかということは、一つ一つの場面について吟味される必要がある。
私の理解では、「前提のない思惟は存在しない」という考えが不適切であるのは、それが問題解決のための方法として、最も手近な方法が試みられるより前に、その「根本的方法」を優先させてしまう傾向があるためである。
私はトマス神学の解決のためには、そこで用いられたアリストテレス哲学の異教的性格から叩き直さなければならないというのではなく、ギリシャ哲学とキリスト教を結ぶ議論があればよいと考える(「信仰と理性論」Chapter 1 - Section 4)。カント哲学の解決のためには、カントの理性を「偽装自律」として根本批判にかけるのではなく、「現象と物自体の分離」という、『純粋理性批判』の結論を再検討することが重要であると思う。
「対立の原理」に基づく理論は、このような手順を一切省き、とにかく「彼らの前提に誤りがある」として、思惟の前提に遡ることを万能の方策としている。
しかし、それは根本的というよりは大味なやり方であり、我々プロテスタント教会が、カントのどういった影響について苦しんできたのであるかという具体的観点を置き去りにしたまま、ただ「異教的思惟に毒された者の言うことであったのでそれは間違っていたのだ」と告げるのみである。私にはこういった「根本的批判」は、むしろ問題解決ができないことの別の表現であるように見える。
また、「前提のない思惟は存在しない」という考えは、絶対的な意味においては否定できないものの、相対的な意味においてはそうとはいえない場合があり、どんな状況においても適用すべき万能の考えではない。
その一つは、特定の判断と特定の前提に着目した場合であり、それらの間に何ら影響関係を認められないということがいくらでもありえるということである。もう一つは、前提の存在が、そこでの判断にまったく顔を出さない状況があるということである。
これを一つずつみてみよう。
認識である以上避けようのない前提の存在を指して「前提のない思惟は存在しない」と主張することは、当たり前のことを述べているにすぎない。確かに、認識的、環境的、文化的などを含めた広い意味においては、それらの前提から免れているような思惟は不可能といってよい。
しかし、そういった避けがたい前提の存在が、必ずしも議論対象を、本来の目的に耐えないほど歪めさせるのではない(「信仰と理性論」Chapter 1 - Section 4)。ここではその点は置くとして、まず「特定の前提に着目した場合に、そこで問題になっている判断との関連において、その前提が何の影響も与えていない」と思われる状況について確認しておきたい。
先にヴァン・ティルが述べていた例だが、物の長さを測るという場合、その測定結果が測定者の宗教的信念から影響を受けるものではないことはいうまでもないことと私には思われる。測定者が信仰者である場合、彼は測定時にも何らかの宗教性を保持していることは確かだろう。つまり彼はその行為が何であれ、それに先立つ絶対的前提を持っている。
しかし、その宗教的信念は少なくとも測定結果には影響を与えてはいない。単に、あれこれの信念を保持していることと、特定の行為の「前提」としてそれが機能してしまうことを混同すべきではない。それゆえ私は、特定の事柄と特定の信念間の相対関係においては、「前提のない思惟、行為が存在する」と主張する。
次のような情景を考えてみよう。杖のような一本の棒を前にして、二人の男が論じ合っている。杖の長さについては二人とも「1mちょうどである」と言っている。しかし、杖の由来について話し始めると彼らの見解は食い違う。一方はそれを由緒ある「古老の杖」だと言うのだが、他方は単なる「流木」だと言う。二人の認識には違いがあるというべきなのだろうか。
ハンソンであれば、この場面について「1mという判断は、それぞれの信念を背負った上で述べられているので、彼らは異なる認識をしていると理解すべき」というだろう。
しかし、同じ測定結果を得ている行為に関して、それを「異なる認識」だと述べることにどのような意味があるだろうか。測定行為の哲学的な意味とか、何らかの根源的意味を尋ねるといった場合には、両者を異なるとすることに意味がでてくるのかもしれない。
しかしその場合は、むしろこれを強調して、かつてヘラクレイトスが「同じ川に二度入ることはできない」
しかしそのときでさえ「1m」という特定の判断に限っては両者は一致しており、それに関しては、彼らの棒への思い入れの違いは影響を与えていないということもまた確かな真理であるといえるだろう。したがって、彼らの認識を同じとすることもできる。
では、どちらの見方が彼らの測定行為をより深く真実に捉えていることになるのだろうか。どちらも同程度というべきである。
というのも、ハンソン的理解には、「同じ」とみることは諸前提の存在に無自覚な見方だという主張が含まれているのだが、この場合は、前者が見ていた諸前提の存在というものは、後者においても十分に意識された上で「影響なし」と判断されているからである。
次に、「前提の存在が判断にまったく顔を出さない状況」についても確認しておく。
ハンソンは、論理実証主義における「理論言明」と、その検証のための「観察言明」の区別に反対して、理論を検証するための観察もまた理論負荷性を負っているのであり、「ありのままの事実」を観察することはできないと主張した。
確かに、観察が無前提ではないということはその通りなのだが、しかし、理論を立てたときと、その検証のために観察を行ったときの前提が同じなのであれば、その前提の存在は一連の行為に顔を出すことはないのだから、観察言明が前提を負ったものであったとしてもその検証の有効性については影響がないと考えられるべきと思われる。
私が、窓の閉ざされた部屋にいて自分の記憶をたずね、「外に一本の木が立っている」という「理論」を立てた場合の真偽は、窓を開けてみて、そこに見える木の本数を観察することで検証できる。
それは、この検証における問題が、木の有無や何本かというレベルの問題であって、それ以前の前提的問題、例えば「今、窓の外に見えているのは偽りの映像であるかもしれない」ということや「今、私は夢を見ているのかもしれない」といったことは問題とならないからである。
というのも、もしそういった認識行為の前提が問題視されるべきとするならば、そのことは「外に一本の木が立っている」という理論を立てた際にも、同じく問われていなければならなかったとすべきだからである。
そうすると、それはもはや検証だけに関わる問題ではないので、その認識行為の前提が検証を誤らせているということはいえないことになる。その検証が理論言明と観察言明の差を捉えようとするものなのである限り、両者に共通する前提の存在は問題にならないのである。
「前提のない思惟は存在しない」という考えは、すべての人の思惟を、信念に基づくとみる「対立の原理」の核心である。
しかし、認識に影響を及ぼしうる前提は、ヴァン・ティルらが述べる宗教的信念だけではなく、ハンソンが主張した科学的、理論的なもの、還元によって事象を理解しようとする通常の知識の方法、予測や先入観のような「みなし」、そして訳語や言語、またこれらの考えの原型ともいえる認識制約としてのカント的主観など、非常に幅の広いものである。
それらの「前提」は、一つ一つが充分な議論を必要とする主客関係の多様性をもっており、すべてを「認識の前提」として同列に問題視することはできない。特に、信仰に基づくような超越的な解釈、例えば「神が世界を創造した」といった信念が、その信念を抱く者のどのような認識や行為にも必ずついて回る前提であるのかということについては、明らかに議論の余地が存在しているだろう。
また「観察の理論負荷性」によって認識における解釈的前提の存在を主張したハンソンも、その著述の中で、解釈を含むに至らないような認識の存在を認めている点についても付言しておきたい。
「物理的対象を見るときのように『として見る』という特質が欠けている場合、研究の途上でわれわれの経験にとって全く新しい視覚現象に出会った場合、われわれは例外的な、非典型的な事例に直面しているのである。」
ハンソンは、例外としてこういった場面の存在を認めているが、もしこのような場面の存在が認められず、どのような事象に対しても必ず「~として見る」と理解されなければならないとしたら、聖書に、奇跡を目にした人々が「非常な驚きに包まれた」(マルコ5.42)とか「言うべきことがわからなかった」(マルコ9.6)と記されている部分もまた「彼らは自分の信念に基づいて解釈した」と書き直されねばならないことになるだろう。しかし、事実はそうではなく、彼らは解釈も判断もできなかった、すなわち「~として見る」ということができなかったのである。
未信仰である人々というのは、このような「~として見る」ということをしない人、するに至っていない人と理解されなければならない。つまり、彼らは何らかの理由から実在論的な世界観を採用するに至る、その以前の状態にある人々なのである。
これらの観点からすると、先の春名の引用において「信者は、自分が神の被造物であることを知っており…」
これらにおいては信念が知識のように述べられており、両者の区別のなさに対する躊躇がない。しかしはっきり言って、我々は自分が神の被造物であることを「知っている」のではない。そう「信じている」のであって、自身の被造性という観念は知識ではなく、我々の信仰すなわち信念として理解されるべきものである。
ここにみられる知識と信念の混同は、あるいは「対立の原理」を支持する人々の間においては、もはや思考上の習慣になっていることであるのかもしれない。しかし、宗教的信念を「キリスト者にとっての事実」として、一般的な知識と同一視することは、どのような立場をとるにせよ信仰と理性論においては望ましいことではない。
というのも、そういった宗教的確信というのは、存在論の採用、実在論の仮定、後件肯定論理、解釈学の背景設定であるわけなので、信仰と理性論はそういった(古い言い方だが)独断論と、知識の関係について常に自覚的でなければならないはずだからである。
また、我々が宗教的信念を知識のごとく格上げすることで、それらの違いに対する意識を失うことは、他者への信仰の伝達という問題にも深くかかわってくるだろう。というのは、信念と知識の相違は、我々の伝道に制約を与える基本的根拠であり、その相違が、信仰を他者に伝える我々の姿勢がどうあらねばならないかを規制しているからである(「信仰論」Chapter 2 - Essay 2 参照)。
信仰と知識の区別の消失は、自己の信念が即他者の利益でもあるはずだという考え方に直結し、原理主義的思考につながる可能性がある。そして「対立の原理」の考え方にはこの傾向が含まれていると私は感じている。