第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
「対立の原理」は、以下の点で我々の思惟の実際を表現したものではないといわなければならない。当論考は「対立の原理」を先に引用した支持者らの言明
第一に「対立の原理」は、対立の構図を、信仰に基づく思惟を持つ者同士の対立として描いていることから、キリスト者を信仰者と見る(これは当然だが)だけにとどまらず、非キリスト者についても何らかの異教的信仰者と見立てているのだが、それは「未信仰の非キリスト者」を表現していない。
これは「対立の原理」が、前世紀初めのヨーロッパ社会を土壌に生じた思想であることに少なからず関係しているだろう。現在ではその傾向が薄れつつあるとのことだが、前世紀半ばまでの欧米社会では、人々が「何らかの信仰を持っている」ことが一般的状況であったということが、この「対立の原理」の背景になっていると思われる。
キリスト者と非キリスト者の相違を、宗教的信念を持つ者同士の対立として描くことは、そのような社会においては違和感のないものとしても、無信仰かつ世俗性の強い日本社会においては実状を離れていて奇異にみえる。
第二にそれは、キリスト教信仰者であれ、異教信仰者であれ、信仰者内における信仰と理性の関係を単に「順応」とすることで、信仰者の内になお存在する機能的対立を除き去ってしまっており、信仰者における信仰と理性の緊張関係を表現できていない。
これらのことのために、私はこの「対立の原理」を、それが穏健な形であれ急進的な形であれ支持しないのである。この第二点目についてはSection 1-4に改めて述べることにする。
さて、「対立の原理」における「対立」は、異なる宗教信念を持つ者同士の間に、「信仰&理性」と「信仰&理性」の全面対立として存在するとされる(前段の「カイパーの対立の原理」図参照)。この理解は、宗教者同士の関係を述べるものとしては妥当な理解であるだろう。
実際に、私は、キリスト教徒ではない宗教者と接することがあるが、その際に感じられることは、信仰の相違に伴う判断や価値観の違いだけではなく、ときに同じ用語を使っていても、そこで考えられている内容が全然違っているということである。
しかし「対立の原理」を、その本来の意図である一般的な二者間の関係論としてみた場合には、不十分と見なさざるを得ない。すでに述べたが、それはそこでの二者が「キリスト者と非キリスト者」とされているにも関わらず、この「非キリスト者」に未信仰者が含まれていないと感じられるためである。
「非キリスト者」は、異教信仰者だけではなく未信仰者を含む広い概念であるから、「キリスト者 対 非キリスト者」においては、「キリスト者 対 異教信仰者」だけではなく、「キリスト者 対 未信仰者」の関係が考えられなければならない。
しかし「対立の原理」が述べる関係論は、両者共が宗教的信念に基づくのであるような「信仰&理性」と「信仰&理性」の全面対立であり、この理解では未信仰者の状態は表現されない。
未信仰者とは、信仰者のような存在論的信念を獲得するに至っていない者のことであって、彼らの未信仰状態とは、何らかの存在論的信念に立つものではなく、むしろそういった存在論(究極的実在に関する考え)の未確立・欠如状態にある者のことである。
このような未信仰者の思惟を、信仰者の思惟と同じように「信念の上に理性が乗っている」構図として理解するところに疑問を感じる。「未信仰者」と「異教信仰者」の区別が行われていないということである。
しかしながらこのところで、「対立の原理」の支持者からは、次の反論が起こることが必定である。
すなわち、上のように未信仰者の思惟を「信念に基づかない思惟」とみることは、理性の中立性を素朴に肯定する近代的理性観に立った理解にすぎないのであって、それこそが「対立の原理」が警鐘を鳴らしてその誤りを指摘している考え方なのだという反論である。
「対立の原理」が教えようとしているのは、そのような、一見、未信仰・無宗教と見える思惟においても、実は、その根底に何らかの信念や宗教性が潜んでいるのであり、その前提を見落とすべきではないということであるとされる。
確かに「信仰と理性論」Chapter 1の冒頭で触れたように、二十世紀以後の哲学思潮は、理性の前提批判に向かっており、私もその方向が誤りではないことを理解する。「前提のない思惟は存在しない」という標語を、古い理性観によって否定するものではない。
また、未信仰者が何らの前提を持たない立場にあるとか、宗教的に何ら影響のない中にあると考えるものでもない。彼らもまた避けがたい様々な思想的文化的前提の中に置かれた人々であることに違いないのである。
しかし、そのことは、信仰者と未信仰者の区別をしないことを正当化するものではない。「信仰と理性論」Chapter 2 - Easy study 6-3に述べたとおり、ある事柄に対して否定の判断を下している状況と、不明とみている状況は区別されなければならないからである。
キリスト者はキリスト教有神論を肯定しており、異教信仰者はこれを否定しているとすることはよい。しかし未信仰である人々というのは、キリスト教有神論を不明とみているのであり、異教信仰者とは異なる態度をとっていると理解されなければならない。
信仰者を、有神論などの何らかの存在論を信念とする、後件肯定論理思考の実在論者(Chapter 2 - Easy study 3)とみることは適切だが、未信仰者をそのようにみることは不適切である。もし、我々が「私はキリスト教的存在論を採用しているが、あなたも無神論という存在論を採用している」と言ったとしたら、彼らを当惑させることだろう。
「神の存在を信じない」というのは、「神がいないと信じている」という場合だけではなく、神の存在を信じる特段の理由を見いだしていないという場合があり、むしろこちらの方が一般的である。その人は無の実在論を採用しているのではなく、実在論という考え方自体を採用するに至っていない、実在論採択未満の状況にあると理解されなければならないのである。
したがって未信仰状態から信仰状態に移る、つまり信仰を持つとは、それまでは有神論的な存在論を採用する理由がなかったが、今はそれを持つようになったということである。
中には、虚無的であるような強い存在論的確信状態から、キリスト教有神論へと移行するという場合があるかもしれない。神の存在を積極的に否定するという意味での無神論を主張する人や、前世紀の論理実証主義のように、論理的思惟になじまないものをすべて存在として拒否するという考え方においては、それらを無の実在論としてみることが可能である。
こういった場合については、未信仰から信仰へ移ったのではなく、むしろ信仰から信仰へ移ったと理解されてよいことであるから「対立の原理」は有効であるだろう。
しかし、日本において未信仰である人々の多くはそのような積極的な無の信仰者ではなく、世界解釈の前提として有神論を想定する根拠を見いだすに至っていないという意味での、いわば「未実在論者」なのである。関係論としての「対立の原理」は、キリスト者を実在論的思惟者とする点ではよいとしても、他のすべての人々を、同様の実在論者に仕立てあげている点で論難されるべき考え方である。