第二部 信仰と理性論 | 星加弘文 |
さて、ここまでは直観主義論理の意味論を頼りに、そこから読み取れるだけのものを読み取ろうとしてきた。ここで視点を変えて、直観主義論理が誕生する契機となった「ラッセルのパラドクス」との関係を見てみよう。
直観主義論理はこのパラドクスを解決するために考えられた論理学とのことなので、この論理学がどのようにそれを解決したかを理解することで、これまでに見てきた直観主義論理の意味論世界についての理解、特に、論理から独立した事実というものを持たないこと、命題の肯定と否定の取り替えがきかないことについて新たな理解が得られるものと思う。
野矢茂樹『論理学』ではラッセルのパラドクスについて、命題関数版、集合版、普及版と三つの形態で説明されている。ここでは前二者を取り上げる。(普及版については命題関数版の中で言及する。)
パラドクスの集合版は次のようである。
まず「自分自身を元として持つ集合」について考える。例えば「犬の集合」は「犬」を元とするものであって、「犬の集合」を元に含むものではない。したがって「犬の集合」は「自分自身を元として持たない集合」すなわち「自分自身を含まない集合」である。
では「犬でないものの集合」はどうか。「犬でないものの集合」の元は「犬でないもの」たちなので、そこには犬以外のもの、すなわち「犬でないものの集合」自身も含まれるはずである。「犬でないものの集合」というのは犬ではないからである。したがって「犬でないものの集合」は「自分自身を元として持つ集合」すなわち「自分自身を含む集合」である。
具体例が分かったところで集合Mを考える。この集合Mは
M={x|x∉x}
と定義されるものである。右辺にある縦棒の左側のxはMの元を表し、右側はその元の性質を示している。Mはxを元とし、そのxは自分自身を含まない種類の元であるということである。つまりこの段階でのMは「犬の集合」の類いである。
集合Mの定義から、xに関して次の同値式が得られる。同値式とは、左辺と右辺の真偽値が一致する式のことである。
(x∊M)≡(x∉x)
この式は、xがMの元であるときxは自分自身を含まず、そうでない場合はxは自分自身を含むということを意味しているので、この段階のMも「犬の集合」の類いと考えてよい。
ところがここで、xにM、すなわち自分自身を代入すると様相が一変する。
(M∊M)≡(M∉M)
先の「自分自身を元として持つ集合」と「自分自身を元として持たない集合」の区別に照らすと、この新たな集合Mは、いずれに該当するのだろうか。
この式は、MがMを含むこととMがMを含まないことは同値である、と言っている。しかしこの式は、左辺が真であれば右辺は偽、左辺が偽であれば右辺は真となるように見える。それゆえMが「自分自身を元として持つ集合」であれ、「自分自身を元として持たない集合」であれ、いずれも、この式の主張するところは成立しない間違った式ではないか。少なくともこのMは「犬の集合」には該当せず、また「犬でないものの集合」というのでもないだろう。
以上がラッセルのパラドクスの集合版で、最後の式が矛盾であることの証明は『論理学』問題69解答で見ることができる。しかしこれが矛盾式であることを了解するためには、この式の形を見るだけで充分であるだろう。
直観主義論理はこの矛盾を回避するために考えられた論理学ということである。どのようにして回避したのだろうか。
野矢氏の解説によれば「犬でないものの集合」のように無限集合となる集合の場合、それを完結した集合のように扱うところに問題の根があるということである。
無限集合は、その全体を獲得することはできず、ただもとの集合に対する新たな元の追加の過程として順次得られていくものであり、計算によって1桁ずつを獲得していくπの無限小数列と同様のものということである。
この点を重視するならば、MがM∊Mであるかを問うこと、すなわち「自分自身を元として持つ集合」なのかそうではないのかを問題にすることそのものが不適切な問いであるということになる。
なぜなら、全体が定まっていないMが、自分自身Mに限らず何らかの元を自分に加えようとするとき、その結果得られる集合は、Mではない別の集合M'と見なさねばならないからである。仮に、予め全体が定まっている集合であれば、そこに何が加わろうとも、もとの集合のままとして扱うことができる。
しかし、集合の全体が不定である場合、現在の集合と、そこに何かが加わった集合は異なる集合として扱わざるをえない。そこで、無限集合Mが自分自身を元とするかという問いは、MではなくM'の元を問うことになるので、Mに対する問いではなくなっているのである。
この説明はよく理解できるが、ただしこれはパラドクス回避のためにラッセルが創始した「タイプ理論」での考え方であり、直観主義論理の解決方法というのではない。無限集合を完結したものと見ずに構成されていくものとして見ることによってパラドクスを回避したというラッセルの解決方針はそれとして、やはりこれと同じく「無限集合を完結したものと見ずに構成されていくものとして見ることによってパラドクスを回避した」というその解決は、直観主義論理のどこに認められるのだろうか。
直観主義論理の特質は二重否定除去則を公理からはずしたところにあるので、おそらくこれがパラドクス回避につながっているはずだが、二重否定除去則の拒否と無限集合を構成的なものとして捉え直したこととの関連はまったく見えない。『論理学』がこの部分に明瞭には触れていないのが残念である。
当論考のここまでの考察からは、直観主義論理が論理から独立した対象物を考えないこととした、というところにその連関を認めることができるように思われる。
集合MがM∊Mであるかを問うことは、Mを完結した集合とみなすこととなりそれがパラドクスの根となっているわけだが、「Mを完結した集合とみなす」ということはMを論理から独立した対象物、すなわち論理に影響を受けずに存在している対象物と見るということであり、この点がまさに古典論理の真理観そのものである。
直観主義論理はパラドクスを避けるために、この「論理に影響を受けずに存在している対象物」という真理観を退けたということであるように思われる。
MがMの元であるかを問う論理においては、MはM自身の追加によって影響される存在とみられなければならない、というのが直観主義論理が新たに採った立場だといえる。しかし具体的には直観主義論理のどこでこのことが行われているのだろうか。
前段終わりのところで「直観主義論理には証明や証言あるいは『見た』などの感覚的な言明が存在しているだけであり、これらの言明に対応する事実が存在しているわけではない」と述べたが、このことが明らかになったのは「直観主義論理の¬Pの証明表2(再録)」の認識史01での~β期の証明値の考察においてである。
そこでは元の命題の肯定と否定を取り替えると事態が変わること、言いかえれば、認識史01から独立して存在し、その認識がどうであれ変わることのない事態というものの存在しないことが示されていたのであった。
したがって、直観主義論理が認識史01の証明観を持つことが「論理から独立した事象の存在」を認めないことにつながり、そのことが事象を完結したものと見ない考え方となっている、ということのようにも思われる。
しかしこれは推察の域を出ず、「集合Mを完結した存在とみない」ことと、認識史01の関連性を明らかにしたものとは全くいえない。次段以降で、このあたりの事情がもう少し明快になることを期待したい。
「直観主義論理の¬Pの証明表2(再録)」では、以下の理解を確保しておきたい。直観主義論理は無限であることゆえにその対象の全体を把握できない事象を扱い、また、それが構成によってのみ存在しうる対象を扱う。前者の代表が集合Mでありπである。後者については先に「罪の立証」の例を考察した。
では、どちらが直観主義論理の対象としてより基本的な性質を持つものなのだろうか。それは後者と考えられる。なぜなら、集合Mとπの小数列は無限であるとともに構成によって獲得される対象であるのに対し、司法世界での「罪の立証」は有限であり構成によって獲得される対象だからである。
つまり両者に共通するのは、それが構成によって初めて存在する対象、言いかえれば、知られることによって初めて分かる未知の対象という性質である。無限は論理から独立していない事象の一つの例にすぎないということのように思われる。