第一部 信仰論 | 星加弘文 |
さて、しかしこの「隔絶性」は乗り越えられることになる。我々は福音書後の使徒行伝の使徒の姿からそれを知らされる。そこに登場する彼らは、福音書時代とはすでに雰囲気が違っていて何か威厳のようなものを備えている。
使徒のこの変わりようはChapter 2 - Easy Study 2~3で触れた通り、古くから神学者たちの注目を集めていた。福音書から使徒行伝へと読み進めていくとき、多くの人がその変貌に意外の念を抱かされるのである。
このことは、各福音書の終結部から使徒行伝に至るいずれかの時点で、イエスの「隔絶性」が克服されたことを示している。しかしそれがどのようにしてであるのかは全く明瞭でない。我々はただ隔絶を乗り越えたと思われる彼らを突然目にするだけなのである。
この「隔絶性」の克服を、弟子たちの成長物語における単なる信仰過程の一つと解する向きもある。すなわち、彼らはイエスと共にあったときはまだ未熟であったが、イエスの死と復活を通して信仰が成長し、最終的にはイエスが求めていた境地に到達したということである。
しかし使徒の信仰の変化をこのようにまとめてしまうことは、最初の教会を出現させることとなった彼らの「信仰」に関して重大なものを見落とすことになると私は思う。
なぜならここでの使徒の変化を重視しないということは、使徒の最終的な信仰状況を、福音書時代の信仰の延長とみることを意味するからである。それは彼らのこの「信仰」に何の新しい性質をも見ないことに等しい。
福音書時代の弟子たちは、イエスに接し、そこで彼について分かったことに基づいた信仰をイエスに抱いていた。
それはある種の自然発生的信仰であり、ときにペテロのキリスト告白のように瞬間的な高揚を見せることはあったとしても、それはなおその時のイエスの姿や働きに応じた反応を彼に寄せたものに過ぎない。そのためイエスの処刑時のような事態において、彼らの信仰は潰えるのである。
一方で、現在に伝えられているキリスト教信仰とはこのようなものではない。我々の信仰には、イエスの行状から知られることだけではなく、イエスを間近に見てもけっして知れないはずの「神の御子」「救い主」「キリスト」等々の判断が含まれている。
福音書時代の使徒はイエスの業からイエスを判断していたが、使徒行伝以後においては逆に、イエスに対するこの信仰から、かつてのイエスの業を理解するようになっている。これが福音書時代と使徒行伝以後のキリスト教信仰の根本的な違いである。彼らのこの信仰を「使徒的信仰」と呼ぶことにしたい。
すなわち、現代の信仰はイエスと共にあった福音書時代の使徒にではなく、イエス亡き後の使徒行伝時代の使徒に発する信仰である。この「使徒的信仰」の新しい性質を一言でいうならば「確信(Ⅰテサロニケ1.5)」である。それは信仰の成長においてイエスを信じる気持ちがより強まったというようなことではなく、何らかの契機によりイエスへの明確な確信を得た状態と呼ぶのが相応しい。
我々は、使徒たちがイエスの「隔絶性」を克服した事実と、その克服の結果を使徒行伝から知らされる。彼らはイエスがキリストであることを確信している。そしてその信仰が正しいことをさらに確信している。しかし、その確信をどのようにして得たのかは依然謎である。
そこで問題は、彼らに確信を与えた「隔絶性」の克服がどのようになされたのかということである。彼らの変化を自然なものと解して不問にするのではなく、解かれるべき問題として設定することが重要である。
これを解明することはイエスが弟子たちに求めた信仰を明らかにすることであり、それはまた「かつて成立した信仰を現代に成立させる」という神学の究極の課題を実現する道筋にもつながることであるはずだからである。