第一部 信仰論 | 星加弘文 |
『人は何で生きるか』――高校卒業を間近にした頃、背表紙のタイトルを見てその民話集を手にしたが数分後には書棚に戻していた。表題に予想されたものが書かれている訳ではないことが分かったからである。
そこにあったのは「人は何によって生きるべきか」ではなく「現に人は何によって生きているか」という民話らしい、しかも平凡な観察だったのである。
同じ頃、私は同級生の勧めで日本のある宗教の教典を借りて読んでいた。しかし宗教書というものに初めて接した私はその内容にとまどいを感じた。
「怒る人はガンになる」とか「病気は人間に特有のもので動物界には存在しない」と書かれていたのだが、私の困惑は、その見解が常識からはずれているように思えたということにではなく、たとえ仮にそれがほんとうだったとして、そういった「事実」や「世界の仕組」に基づかせて「だから怒ってはいけない」とか「業を棄てなければならない」という結論を引き出してくるやり方がご利益的に思えたことにあった。
「天国」によって善行を動機づけたり、「終末」到来を告げて人々に特別な行動をうながそうとすることは、健康のために日々の適度な運動を奨励することとなんら変わりがない。
違いがあるのは様々に想定されうる「世界」というもののどの領域までを、実際に自分の身に降りかかってくる現実とみなすかという点である。
そしてその了解に基づいてどうすれば最終的に得をするかということが説かれていくわけだが、それは私が知りたいことではなかったのである。
真偽の定かではない教義が唱える世界 ―「宇宙の法」や「神」や「霊界」― のことはどうでもいい。ただこの宗教においてはどう生きることを正しいとしているのか、それがわかればよいと私は考えていた。
しかしその教典のどこをみても、世界の仕組みというのはこういうものなのだからこうすればこうなるという理屈にみちていて、商売繁盛の祈願など端的に悪と考えている若い理想主義者にはとうてい読み通せるものではなかったのである。
そして以後、私は宗教に対して次のアンチテーゼを掲げるようになった。
「あなたがたの言うとおり神が存在するとしよう。しかし神がいるからどうだというのか。」