Part 1  The Theory of Faith Hirohumi Hoshika

Chapter 2 Views that Prevent from Approaching Christianity (5)

Easy Study 1 Kant: Impossibility of Knowing God

To understand Kant's philosophy, it is necessary to understand the problems that Kant was trying to solve. The challenges faced by Critique of Pure Reason become clear by tracing from the philosophical trends of the 17th century to Kant's "pre-period critical" thought. (pre-period critical: before he wrote Critique of Pure Reason). For more information on this, please refer to Part 2 "The Theory of Faith and Reason" Chapter 4, which summarizes the general history of philosophy. [1]

Here, I will summarize the philosophical solutions and their influences that Critique of Pure Reason attempted, in relation to the ideas of D. Hume, which was the direct impetus for writing Critique of Pure Reason.

Kant, who published Critique of Pure Reason in 1781, is a philosopher of the late 18th century, but B. Russell, author of A History of Western Philosophy, begins his chapter on "Kant" by stating that "18th century philosophy was dominated by British empiricists." Kant's philosophy was established through deep ties with British empiricism.

J. Locke, the founder of British empiricism, advocated what Russell called "a revolutionary new theory at the time," that the source of knowledge is experience. However, this empirical philosophy did not go in the direction of guaranteeing the foundations of natural science, which had already flourished in the 17th century under Newton and others, but rather in the direction of casting doubt on its certainty.

Locke's epistemology was not realism in the sense of accepting the existence of the external world and matter as a matter of common sense, but rather a highly idealistic empiricism that followed in the footsteps of the continental rationalist philosophy of Descartes, Spinoza, and Leibniz, which held that the external world could be known through the mind.

The British empiricists who followed him were also children of rationalism, and worked hard to make Locke's epistemology, which remained an eclectic compromise between ideas and reality, more consistent. As a result, G. Berkeley drove empiricism to idealism, and Hume drove empiricism to skepticism.

Of the three traditional concepts in philosophy - God, mind, and matter - Berkeley denied the existence of matter, while Hume denied the existence of mind, describing the ego as a "bundle of perceptions."

By breaking down the mind into perceptions, Hume's epistemology further advanced Berkeley's empiricist position, which viewed the external world as ideas. He came to understand the causal relationship that was thought to exist between two events as the mere juxtaposition of two perceptions.

Based on the observation that the two perceptions corresponding to each event do not contain the idea of a "necessary connection," he concluded that the "cause-effect" relationship in which event A is always followed by event B is due to a psychological habit formed from the repeated experience of perceiving A followed by perceiving B.

Kant realized the importance of this Hume's denial of the law of causality and said that "interrupted my dogmatic slumber," and he begins his Critique of Pure Reason with the following statement:

" For whence could experience derive its certainty, if all the rules, according to which it proceeds, were always themselves empirical, and therefore contingent?" (B5)[2]

At that time, one of the types of knowledge that was considered certain was what was understood to be "innate". Philosophers before Locke believed that reason has a innate (a priori) knowledge, and that solid knowledge can be obtained by recalling knowledge given to humans in advance by God or by recalling idea.

The other type of knowledge that was considered certain was logical.例えば2+2=4という算術が持つ確実さは、2個であるものと別の2個であるものを組み合せると4個になるという経験を繰り返すことから得られる確かさというものとは全く異なる確実性をもつと理解されていた。

すなわち確実な知識というのは論理的であるか、先天的であるかのいずれかと考えられてきたのであるが、ヒュームは因果関係における「原因と結果」という物理的関係が、数学における「根拠と帰結」という論理的関係とは異なることを正しく理解していた。

また、ヒュームが拠って立つ経験論は知識の先天的保有を否定する立場であるので、これにより、物理的事象における論理的確実さと先天的確実さはいずれも否定されることになる。

その結果、因果律は観察に基づく経験的規則、すなわち蓋然的な知識とされ、そこに必然性や確実性をみるのは、ただ、同じ経験を繰り返すことから得た心理上の習慣を見誤ったものと結論づけられることになったのである。

この状況の中で、カントは「経験的でしかも確実である認識はどのようにして可能であるか」を課題とし、

「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか(B19)[3]

という「緒言」での問いにそれを宣言する。ここで「ア・プリオリ」は確実性を、「総合的判断」は経験的な認識を意味している。

科学だけではなく一般的な日常の出来事においては、例えば「背の高い男は必ず男である」のような「背の高い男」→「男」という、初めの認識を拡張しない論理的言明ではなく、「冷たい水を火にかけると必ず温まる」などにおける「冷たい水」→「温かい水」のような初めの認識に含まれないものを含む拡張的(総合的)な言明(判断)がその事態を表現する。

論理的言明が確実性を持つことは知られているが、こういった経験的言明において「特定の事態以外の事態に至ることが不可能である必然性」はどのように生じているのか、というのが上の「緒言」の問いの意味である。

仮にこれが見いだされない場合は全科学の確実さが保証されないことが帰結するが、カントはそのような経験的で確実な判断は実際にはすでに存在しており、すなわち因果律は確実な規則であり、それゆえ科学は確実性を持って成立していることに間違いはないのだが、それが実現されている原理がまだ見いだされていないのでこれを探す、というふうに考えたということである。

そしてカントはその原理を「理性批判」という独自の方法によって見つけ出そうとする。これを見いだすためのカントのアイデアは、従来の主観-客観の関係を反転させた

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うとしたらどうだろう(BXVI)[4]

というものであった。

これまでは外界事象がまず存在していて、我々の認識はそれをあとから捉えていると考えてきた。しかしこの認識観に立つ限りは、因果律などの法則を経験から得てこなければならないことになってヒュームの懐疑論にとらえられてしまう。そこでこの考えを逆にして、我々自身が経験に規則を与えているとしよう。というより、そういった規則なしに我々の経験や認識が成立することはないと考えたらどうだろう。―

この発想により、カントは我々の主観能力の中に法則を与える原理と、経験を成立させる原理が先天的に具わっているとした。

法則を与える原理は、純粋悟性という概念形成能力のうちに因果律を含む12個のカテゴリーからなる論理性が具わっていることによるとし、経験を成立させる原理は、純粋直観というやはり先天的な主観能力において空間と時間が認識されることによるとした。

この純粋悟性と純粋直観の演繹証明が『純粋理性批判』の前半部となる。

補足すれば、ここで確実さの獲得として掲げられている先天的認識(ア・プリオリな認識)は、カント以前に考えられていた神の知識の分与という意味での確実性ではなく、そういった神学的残渣は取り除かれた上で、いま一つの確実性であった論理による確実性が、アリストテレス論理学の援用による悟性カテゴリーという形で先天性の中に導入されたということである。

そこで論理性ゆえに確実性を持つが対象と関わりを持たないアリストテレスの「形式論理学」に対比させて、論理性ゆえに確実性を持ち、なおかつ対象と関わりを持つ論理学として仕立てたのが『純粋理性批判』の前半を締めくくる「超越論的論理学」である。

こうして「認識論的主観主義」と呼ばれるカントの認識論が成立するが、これにより我々の経験はすべて因果律的な振る舞いを持つことが必然となった。この認識観においては我々の主観に存する規則が対象に付与されて「対象が認識に従う」のだからである。

しかしここで「対象が認識に従う」ということを、空間と時間に関する『純粋理性批判』の規定を考慮に入れずにイメージしようとすると、ただ目の前の物たちが、どういうわけか我々の悟性カテゴリーの規則に従って互いに作用し合うことが主張されているように思われて、この考えを突飛なものに感じさせる。

だがそれが奇妙に思えるのは、なお外界の対象を我々から独立した存在物とみる『純粋理性批判』以前の認識観にとらわれているからである。

カントは、外界に存在するとされているそれらの対象物は、空間と時間という純粋直観によって初めて存在できるのだという。広がりや持続性のない物質、つまり空間と時間を必要としない物質はない。しかしこれら空間と時間が我々の主観能力である純粋直観によって生みだされるものだとすれば、物質として認識されている物たちもまた我々の主観を待って初めて存在しうるのである。

それゆえ法則的な物の運動だけが認識に従っているのではなく、物を含む経験そのものが我々の認識によって生みだされた「現象」であるというのがカントの「認識論的主観主義」の主張である。

以上が『純粋理性批判』前半までの内容だが、このカントの見解からは科学法則に従って物事が生起する経験世界としての「現象」と、法則に縛られない超越世界としての「物自体」という二元世界観が生じる。

我々の主観が成立させる経験世界は空間的であり時間的でありかつ論理的な世界である。空間や時間を超えたもの、論理や法則から逸脱しているものは経験世界には存在できない。

ただしこのことはそのような超越的な存在者(存在物)の排除を意味するのではなく、その存在が我々の経験の外において可能であることを示唆するのである。

『純粋理性批判』後半の「超越論的弁証論」は、そのような「物自体」の存在を仮定することで、当時の形而上学が抱えていた伝統的難題をことごとく解いてみせる議論である。

これによってカントは「物自体」という考えの有効性を示し、それまでは信仰かあるいは通俗的にのみ想定されてきた超越世界というものに、哲学理論としておそらく初めて合理性を与えたのである。

私はこの点が、理性自らが自身の能力を批判するという考え方とともに、カント哲学における最も画期的な部分と理解している。

このような性質を持つカントの思想は、その当初、

「誰も神を見たものはない」(Ⅰヨハネ4.12)

「神の目に見えない本性」(ローマ1.20)

「隠されていること」(申命記29.29)

といった聖書の神観に適うものとして、むしろ諸科学の脅威から信仰を守るもののように理解され、E.トレルチやA.リッチュルなどの19世紀末の自由主義神学に至るまで好意的に迎えられた。[5]

科学の基礎を根拠づけながら、同時に、超越的な存在者を暗示する『純粋理性批判』は、科学と宗教のいずれをも擁護するよくできた理論だったのである。

しかしカントが提示する世界観にはキリスト教の世界観からみて重大な欠陥があった。

それは「現象と物自体の分離」と呼ばれる事態で、カントの二元世界は我々の経験とキリスト教の神の間に通行がないことを帰結させるのである。

神は空間的でも時間的でもない存在であるから人間が神を認識することはありえず、神による啓示も命題的言明としてはありえない。カントの理論において神は存在しえるし、因果律に従わない奇跡も起こりえるが、ただしそれは人間の経験の外においてということなのである。

この神認識不可は『純粋理性批判』がもたらすキリスト教への直接的な弊害であり、これを乗り越えようとする人々は、伝統的キリスト教とは異なる自由主義と呼ばれるキリスト教を生じさせた。

彼らにとって、啓示や奇跡を信じる信仰は、『純粋理性批判』登場以前の素朴な信仰にすぎず、正確にいえばそれは誤った信じ方であると思われたのである。

これだけでもキリスト教の歴史における「大変」といえるが、しかし『純粋理性批判』がキリスト教に迫る改変は、神認識不可と奇跡体験不可だけにとどまらなかった。

それが明らかとなるのは19世紀末のW.ヴレーデらの福音書研究によってであるが、そこでは超越的である神に関する認識不可能だけではなく、内在的である史実のイエスの認識不可能が帰結されるのである。