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2021年10月 

『キリスト教 信仰と理性論』紹介と概説 

日本同盟基督教団 

銚子キリスト教会 

牧師 山本 進    

12年前に、他教団でありますが、知人の牧師から、月刊小誌で星加弘文氏の『開かれたキリスト教のための信仰と理性論』が十数回に分けて紹介されました。本論考の前身になるもので、キリスト教教理の取り扱いが論理学や図表を使って説明されていました。

私は今から47年ほど前、大学4年のときにブール代数や分析表としてのカルノーマップを学んでおり、牧師になる以前、システム開発の仕事に従事していたときもその考え方を使っていましたので、方法論的にはとても親近感がありました。

そのようなこともあって、星加氏とはその際に初めて二度ほどお会いする機会を持ったのでしたが、その後は、まったくの音沙汰なしとなっていました。今年に入り、論考をウェブ上にアップしましたので見てくださいとの連絡があり、骨は折れますが読み始めているところです。

トップ画面で、星加氏は、この論文が「人々の無関心に答えることができずにいるキリスト教に対する危機意識」を動機とするもので、「人々をキリスト教から遠ざける根本的な要因となってきた神学および哲学上の諸問題に解決を与える」ことがその目的であると書いています。

たいへん大きな課題ですが、これに星加氏は真摯に取り組んでいると思います。

第一部の「信仰論」では、キリスト教信仰の「必然性」と、キリスト教誕生から2000年を経た現代でのイエスについての確かな知識の獲得「可能性」ということが追求されています。

ただし論考の初めの2章(Chapter 1、2)に述べられているのは、上の課題を扱うときに常に保たれなければならないキリスト教についてのある理解であり、それを星加氏は「キリスト教信仰の事実依拠性」と呼んでいます。

この「事実依拠性」という言葉にはいくつかの意味が持たされているようです。

キリスト教信仰が歴史上のイエス様の出来事と切っても切れない関係にあるということ、そのような関係にあるイエス様の出来事は信仰の前提となるものなので、その知識は信じることで賄われるべきではないといったことが意味されています。

キリスト教信仰がイエス様の出来事と切っても切れない関係にあるということから、Chapter 1では、「聖書の記事が事実であるかどうかはキリスト教信仰にとって重要ではない」と考える啓蒙主義的なキリスト教理解について論じられています。

星加氏はこれを「信仰の事実依拠性」にまつわるいくつかの考察を経て否定するわけですが、この「信仰の事実依拠性」は、私たち保守プロテスタントの牧師にとって完全に支持できるものです。なぜなら、私たちが物事を考え、先に進めていくとき、そのスタートが「事実である」ということが決定的に大切だからです。

出エジプト記では、主がご自身を信じさせるために、10の不思議やしるしを行うことで「わたしが主であることを知る」という、信仰に先立つ「知る」ということを、イスラエルの民に、そしてエジプトのファラオと民に体験させています。

そのように、信仰には実際に起こっていることについての知識が必要です。そして、聞くことを通じて与えられた知識の通りに物事が進んでいることを、生活の場面で感じることが出来た人から無理なく信じることができるということも信仰の実際ですから、この意味でも「信仰の事実依拠性」は大切です。

Chapter 2では、イエス様についての知識は信仰で賄われるべきではないという意味での「事実依拠性」に基づいて、保守的な教会の「聖書信仰」が論じられます。こちらの議論には、現代の聖書批評学に対する砦として「聖書信仰」を掲げてきた私たち福音的教会の牧師にとっては、ただちに受容しがたい部分もあるというのが率直なところかもしれません。しかしその分、この論考が述べている「聖書信仰」のあり方については考えさせられるものが多くあると思います。

聖書信仰は保守派教会にとってデリケートな問題ですので、星加氏が誤解を受けることのないようにつけ加えておかなければなりませんが、星加氏は、私たちがよく知るB.B.ウォーフィールドが紹介する「ローテの原理」による聖書信仰を全面的に支持しています。

Chapter 2 Summaryに書かれているように、まずイエス様への信仰がなければ聖書信仰は成り立ちません(これが「ローテの原理」です)。しかしそのイエス様への信仰が成立するためには福音書の記事が正しいと認められている必要があります。すると、福音書の真実性が批判にさらされている現代において、それはどのように保たれるのかという問題にぶつかります。

ここで星加氏は、その解決を、福音書の真実性を「信じる」聖書信仰に基づかせることは「キリスト教信仰の事実依拠性」に反すると述べます。キリスト教においては、信仰が事実に依拠しているのであって、事実が信仰に依拠しているのではないからです。

理屈としては確かにそうなります。しかしでは、福音書の史実性に疑義が投げかけられたとき、いったいどのような解決があるのか。そのことがChapter 4の主題となり、「過去性の克服」として論じられる展開となっています。

そこでは「史的イエスR」という、これまでの史的イエス研究が提出してきたものとは全く異なる史的イエス概念が提示されています。これは現代論理学に基づく概念ですが、ただし誰もが知っている概念だと言われています。これについて星加氏は、Summaryで「史的イエスRは失敗の概念でしょうか」と問うています。キリスト教教師諸氏の判断が待たれるところです。

前後しますが、信仰論 Chapter 3では、現代におけるキリスト教信仰の必然性が扱われます。

信仰の現在的な必然性を考えるためには、まず過去の使徒において、それがどのようであったかを知るところから始めるべきということが論の出発点となっています。

ここで「必然性」というのは信じる理由があることをいうもので、Chapter 3ではその信じる理由が探求されます。

星加氏は近代神学史以降、その相違が注目されてきた、福音書時代の使徒の信仰と使徒行伝以降の使徒の信仰について、違いがあるとみる理解を支持し、特に後者を「使徒的信仰」と呼びます。

牧師である私としては、救いとの関わりにおいて、福音書時代の弟子たちの信仰と、この使徒的信仰の違いが気になるところですが、論考の関心は、二つの信仰のあり方の違いそのものに向けられており、論の中で教義との関連は述べられていません。

ただし星加氏とのやりとりのなかで、義認に関しては両者とも得られていると理解している旨の表明がありました。もっともなことで、どのような信仰であれ、イエス様を救い主として信じる信仰である以上、そこに救いに関する可/不可を決めることは人間が定めることではないでしょう。星加氏は、使徒的信仰とは、ただ人が福音宣教に立つほどのイエス様への確信を得た状態であると述べています。

この使徒における信仰の必然がどのようであったかを理解する鍵は、福音書時代の弟子たちの信仰が、使徒的信仰へと移行する過程を正しく理解することで得られ、それはR.ブルトマンによる「宣教者であったイエスが、使徒により宣教される側となったのは何故か」という問題提起の考察から得られるとされています。

星加氏によれば、この問題に関するブルトマン自身の解決は突飛なものだが、「イエスの宣教と使徒の宣教に分断がある」という問題の提起そのものはたいへん重要であり、この問題の解決が使徒的信仰の成立理解に結びつくということです。

弟子たちは、3年半、イエス様と一緒に生活していたが、この間、イエス様に対する信仰の告白はあっても、後の使徒に見られる「使徒的信仰」にまでは至っていなかった。イエス様が十字架に死に、復活されたことで彼らは使徒的信仰へと至ります。それは復活したイエス様にお会いし、かつて「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した信仰を再び取り戻したということです。

私が思うに、弟子たちは生前、目の前のイエス様を旧約聖書に預言されたお方と結びつけることができず、イエス様が神的な存在であることは、理性的には不明の状態でした。しかし、復活したイエス様が、旧約聖書の預言をわたしに関することとして説明していくことで、弟子たちは復活のイエス様が生前のイエス様と同じであるという心身的な印象を持ち、そして、聖書の救い主の預言の成就としてのご自身の説明に理性が納得し、心身的にも理性的も両方納得できて、イエス様を神的キリストとする信仰を得たのだと理解しています。

しかし星加氏は、イエス様の復活と使徒の信仰の関係について、教会で上のように語られてきたことは不十分であると述べます。ペテロたちがなぜイエス様への信仰を新たにしたのかという理由は、「ケリュグマ」と呼ばれる彼らの宣教声明の中に明確に示されており、そこから取り出されなければならないことが主張されます。

私がこれまで復活の理解としてきた旧約聖書預言とイエス様との関連は、使徒が宣べたケリュグマの中では主たる部分ではなく、従に位置しており、中心は「あなたがたはイエスを殺した。しかし神はこのイエスをよみがえらせた」という部分であることが示されます。

使徒が宣教したのは「あなた方はイエスを処刑に値すると判断したが、神はイエスを復活に値すると判断した」という、かつてK.バルトが述べていた復活についての解釈であり、この解釈を得たことが、彼らが宣教に立ち上がり、初代教会を形成していくこととなった契機であることがケリュグマの分析を通して述べられます。

つまり使徒たちが信仰を確立したのは、復活という出来事そのものではなく、その解釈の獲得にあるということです。確かに、使徒たちはイエス様が復活して、そのイエス様とお会いした後も離散を続けていたのでした。そしてそれはおそらく、彼らが復活について上の解釈にたどり着くまでの間のことだったということです。

続いて、星加氏は、現代の私たちに使徒と同様の信仰を成立させるものは何かを尋ねて、パウロの宣教が、アテネ伝道での失敗を契機に、復活から十字架に移行していったことを論の展開としています。

アテネでの伝道でイエス様の復活について話したとき、パウロはアテネの人々からあざけられたり、「死者の復活についてはもう一度聞くことにしよう」と話を遮られる体験をすることとなりました。

パウロが語る「イエスの復活」の説教は、良かれ悪かれ、直接的間接的に生前のイエス様と関わっていた人たちに向けられたものでした。パウロは、生前のイエス様と関わりのない異邦人には、復活の話をしたところで、旧約聖書という土台がないため理解が得られないので、異邦人伝道では人の罪と十字架の救いだけを宣べ伝えることに決心したと見られます。

私は、キリスト教が伸びないのはイエス様の復活がうまく語られていないせいかと長年考えていましたが、星加氏が指摘するように、パウロのように、異邦人の日本人伝道には十字架の救いの話をして、信仰を持ってもらい、信仰者となってから復活について語ろうと思うようになりました。

Chapter 3の終わりに、星加氏は改めて、キリスト教信仰においてイエスの史実が必要であるのは何故かを問い、一つのたいへんに分かりやすい結論を示します。

それは、私たち信仰者にとってイエス様の歴史事実が重要であるのは、使徒における最初のキリスト教信仰が、イエスの復活というできごとに対する解釈から生じたからであるということです。

星加氏は「事実がないならばその解釈もない」と述べ、この意味において、福音書記事の歴史的真実性が重要であること、そして「史実と信仰」の根本的な関係性がそのところにあることを教えてくれます。

事実ではなくその解釈が重要だということであれば、事実の方はあまり重要ではないと考えてしまいそうになりますし、実際、主流派神学にはこの傾向が認められます。しかし星加氏は、キリスト教にとって復活の解釈が重要だったのであれば、その解釈の基になる復活の事実はそれ以上に重要であると教えています。

また「第一部 信仰論」の最終節では、考察のまとめとして、キリスト教信仰の二段階構造について語られています。一段階目は福音書時代の弟子たちの信仰、二段階目はペンテコステ以後の使徒的信仰ということですが、キリスト教信仰が二段階の構成を持つことからはいくつかのことが帰結します。

その一つは、「史実は信仰を与える」「史実は信仰を与えない」という、これまでに主張されてきた「史実と信仰」に関する二つの理解に整合性を与えるということです。

確かに私たちは、イエス様の歴史事実を勉強してそれを知ったからといって信仰が生まれるわけではない、つまり、信仰は単なる史実から与えられるのではないという理解を持ちます。しかし一方では、イエス様の出来事が私たちに信仰を与えないのなら何が信仰を与えるのか、とも思います。

キリスト教信仰が二段階であるということが、これに簡潔な答えを与えます。イエス様はご自身に接する人に信仰を与えます。ただしそれはイエス様の様々な業や説教による「自然発生的な信仰」であり、後の使徒が獲得することとなる「使徒的信仰」ではありません。使徒もまた「使徒的信仰」は、イエス様を失った後に得たのでした。この意味で、イエス様は使徒に信仰を与えないということができるのです。

「史実は信仰を与えない」とは、イエス様と一緒に生活しているときは、そこにラビ(先生)としてのイエス様の印象が強く、そのイエス様に対しては、後の使徒のような明確な信仰は生じていない。ただ素朴な信仰が生じて、ペテロのように「あなたは生ける神の子キリストです」という告白もできるが、私たちは十字架直前のペテロの逃亡行動に、その告白が明確なものではなかったことを知らされます。

ペテロは、イエス様が復活し、昇天してから、今までの生活を振り返ってイエス様の言われたとおりになっていることを発見し、再発見し、イエス様を明確に信仰対象とした。それが「史実は信仰を与える」です。星加氏の論旨とは若干異なるかもしれませんが、そのように私は受けとめました。

現在、日本では少子化となっており、教会では教会学校が振るわなくなってきているようですが、星加氏は「福音書時代の弟子たちの信仰は、クリスチャン家庭に育つ子供や、教会学校で『イエスさま』のお話を聞く子供が持つ信仰に比べられる」と発言します。「幼いときから教会と関わりを持つ子供たちも、理想をいえば、初代の弟子たちと同じように二段階の過程を経て信仰が確立されることが願われる」と伝えています。

私はといえば、中学生のとき貰った新約聖書を読み、高校生になって近くの教会に行き、イエス様の話を聞いて、素朴な信仰を持ったことを覚えています。そこまで信仰ができても、洗礼を受けて信者にならないとキリスト教全般が分からないだろうなあと思っていました。そういう私には、私のことを思う信者のひと声、ひと押しが必要でした。そうして洗礼を受けた私の場合は、自分の選択した信仰は正しかったと確信していく信仰生活が始まり50年になろうとしています。

日本では洗礼を受ける人は多いが教会に残る人は少ない、と言われます。素朴な信仰が生じて洗礼を受けた信者が、自分が信じた信仰が正しいと確信する前に試みにあって教会を去っていくのでしょうか。信者に確信に至らせるのは教会の働きです、と星加氏は語ります。そうだなあと、励まされる牧師の私です。

以上が、第一部の大まかな内容ですが、この「信仰論」で述べられている複数の結論、例えば、信仰の必然性は復活解釈などの「キリスト教命題」にあるということや、現代におけるイエスの獲得は「史的イエスR」によるということ、そしてキリスト教信仰の成立は二段階の獲得経緯を持つといったことなど、これらすべては星加氏の単なる主張というのではなく、この論に述べられたキリスト教信仰についての洞察に基づく研究の結果として導かれていることをお伝えしておきたいと思います。

多くの論題で星加氏は教会にとって新しいことを述べていると感じられますが、それは新しい勝手な観念を作り上げることによっているのではなく、使徒のケリュグマや、使徒の信仰の成立経緯、あるいは伝統的信仰に含まれる史実のイエスの概念など、極めて古典的なところにそのよりどころを求めることによっています。私としては星加氏の新しい視点に大いに感化され、うれしい思いです。

まとめれば、「第一部 信仰論」では、信仰の二段階、異邦人には十字架を語る、信仰の事実依拠性は大切、ということが私にとっての再発見ということになるでしょうか。

さて、第二部ですが、Chapter 1~3まで、「信仰と理性論」の論述法について論じられています。

キリスト教は宗教ですから、神、聖霊などの「霊性」や「超越性」を持つ概念が含まれます。これを「信仰と理性論」としてどのように扱うべきかが明らかにされます。

星加氏の「信仰と理性論」においては、キリスト教の神秘性は完全に保たれますが、論証にそれらを用いることは明確に拒否されます。それらは説き明かされる側のものであって、説き明かす側にそれを使うことは、その論をキリスト教哲学ではなく教義学にしてしまうということです。

また、信仰と理性を一対一の関係に置いて論じることはまったく不適切で、それぞれの要素対応における多対多関係に置いた上で、各所での課題が論じられなければならないとされます。そのための、信仰要素の分析と理性的方法の分析が詳細に行われることになり、Chapter 2の最後では、それらの総合としての「信仰と理性の多対多対応表」が作成されます。

この準備を経た後、星加氏の論考はChapter 4で、キリスト教における「啓示の可能性」に向かいます。

現在、プロテスタントキリスト教における最大の問題は、教会が主流派と保守派に分裂していることで、その始まりはカントの『純粋理性批判』にある。その中に保存されている「現象と物自体の分離」という考え方が広く受け入れられてきたが、それにより、超越である物自体が認識不可能であることが説かれたために、主流派神学は、超越者である神からの働きかけはないとして、少なくとも理解可能であるような啓示について、その存在を否定した。

これにより主流派神学は、キリスト教の科学性、学問性を維持しえたと考えたが、一方、保守的な立場の神学は伝統的キリスト教における啓示理解を保つために、カント哲学を拒否するという消極的態度によって信仰を守ることに腐心してきた。Chapter 4の初め「カント問題は重要か」の中で、星加氏はそのように解説しています。

現在、生じているプロテスタント教会分裂の解消がなされるきっかけがあれば、それは大きな働きでしょう。星加氏は本論考で、「現象と物自体の分離」に関する従来の理解に誤りがあり、現象と物自体が分離されても、なお物自体には現象の性質の一つである作用性が保たれ、超越者である神が人間に啓示を通して働きかけることが可能であると解説しています。

このような議論は、一見、護教的なものに聞こえますが、この論考で示されていることは、そういった弁証論的な結論ありきの議論ではなく、あくまでも『純粋理性批判』と「現象と物自体の分離」思想に対する綿密な考察から導かれているといってよいと思います。

その詳細は実際に読んでいただくほかありませんが、ともかくこれにより主流派は伝統的啓示を放棄することなく、そして保守派はカント哲学の有用性を受け入れつつ、従来通り伝統的なキリスト教を伝えてよいことが説き明かされています。すなわち、プロテスタントキリスト教は分裂状態から再び一本になれるはずということです。

本論考の正しさを理解するための、私にとっての解析ポイントの一つは「否定」の解釈でした。

私たちは、否定の否定は肯定と理解していますが、これは扱う物事の範囲が定まっているときです。このことを、私はこの論考を読んでいくうちに知らされたのです。

事象Aを含む領域において、Aとその否定で全体となるとき、Aの否定の否定(二重否定)は、元に戻ってAです。例えば、信号機の燈火は青、黄、赤と決まっていますから、Aを青だとすると、信号機の燈火領域の全体は「青か青ではない」、つまりAまたは否Aで表せます。これは排中律が成り立つということで、この場合は、「青ではない」の否定は「青」、という二重否定も成り立ちます。

しかし例えば、信号機のようでもあるが何か得たいの知れないものが目の前にあって、それが青色を点灯しているのを見たとき、ということを考えてみると、これの燈火の全体を「青か青ではない」として排中律的に理解することは適切ではないかもしれません。

というのは、このときの私たちは、その青が消えたときに何が起こるのかを知らないからです。青が消えたとき、その燈火機様のものは、自動車レースでのように、すべての燈火を消すブラックアウトの状態を示すかもしれません。それどころか、もしそれが(物騒なたとえですが)爆発物だったとき、青が消えた途端に跡形もなく吹き飛んでいるのかもしれません。

このように、私たちがある物事の一つの側の状態しか知ることができずにいるときには、そうではない未知のもう一方の状態を否Aとして理解することは必ずしも適切ではないといえます。

これは上の例で、否Aは「青ではない」という意味に考えられていますが、しかし正確には、この否Aには「青ではないが何らかの色ではある」ということが含意されており、それが暗黙の前提となっているためです。色という前提を超え出るような事態について、単なる「青の否定」はそれを表現できていません。

全体が把握できない状況、つまりその片側しか知ることができていないと考えられる場合のもう一方の状態というのは、常識的な否定の論理だけからは推定することができず、ただ私たちがそれを知る機会を持てるかどうかに依存するということです。

そのような場合というのは経験の境界がぼやけていたり、無限のように知りえる範囲が定められないといったことがあるのですが、このとき、Aの否定は否A(Aの反対)ではなく非A(Aに非ず)として理解される必要があります。それは否A(青の反対側の他の色)であるかもしれないが、そうとも限らず不A(青ということからは想像がつかない不明さ、別の言い方をすれば青からの自由さ)でもありえるという意味での非Aです。

そしてこのとき、二重否定されたAは必ずしもAに戻るのではないことはよく理解できることだと思います。否定の仕方に「否」と「不」の二種類があるとき、否として否定されたものに、不という異なる種類の否定を与えても元には戻りません。再び乱暴なたとえですが、先の燈火機様のもので青色が消えて赤になっているとき(否A)、次にそれが爆発したら(不A)元に戻りようがないですね。

星加氏によれば、私たちが住むこの世界と、神が住まわれる超越世界ということが考えられているときの、私たちの状態がまさに上の例に該当しているということです。確かに、私たちはこの世という片側の世界しか知ることができない状態にあります。

この場合、二重否定や排中律が成り立たないという上の考察が教えることは、私たちはもう片側の世界を、私たちが知っている世界の否定として捉えることは正しくないということです。事実、私たちは神を人間の否定としては考えていません。キリスト教において神は人間と、霊性・道徳性において共通性がありつながりのある存在です。

星加氏は、カント哲学における現象(内在世界)と物自体(超越世界)の関係も同様に理解されなければならず、物自体は現象の否定としてではなく考えられるべきで、したがって「物自体は現象に働きかけを持つことはできない。なぜなら作用性というのは現象の性質だからだ」という「現象と物自体の分離」という考えが誤りであることを述べています。キリスト教的に言いかえれば「啓示はない」という理解は、現代論理学の観点からみて誤りであるということです。

否定にまつわる上の理解は、キリスト教教義に基づいてではなく、Chapter 2の「直観主義論理 意味論」についての詳細な考察から導かれています(その箇所は「Hard study」と銘打たれていて理解が易しくないところですが)。

星加氏はそこで得た見通しを基に、Chapter 4でカント哲学を点検し、『純粋理性批判』に対する既存理解の誤りを見つけ、正しい理解を手に入れて行ったと思うのです。これによって、彼はこれまでに行われてきた「現象と物自体の分離」という理解に対して再考する道を開きました。

私にとってもう一つのポイントは、前件肯定式推論、後件肯定式推論についての理解でした。

今までの私の考え方では、「AならばBである。AならばCである・・・」という複数の後件肯定式推論による仮説を立てて、それぞれの後ろにある結果B、Cを現実の中で確認することから、前にある仮定Aの正しさを獲得する、ということによって物事を捉えてきました。学校でそう習ってきたからです。

星加氏は、上のような後件肯定式推論を「実在論」と呼んでおり、それとは別のもう一つの後件肯定式推論を「解釈学」として紹介しています。

聖書のテキストのように固定されているもの、あるいは「この世界」のように変えようのないものに対して後件肯定式推論を働かせる場合、「AならばQである。BならばQである・・・」という、実在論とは異なる形式での仮説をやはり複数立てることになるのですが、その中に、Q(テキストや世界)に対する有用な理解が見つかる可能性が述べられています。変えようがないQを保存しつつ、しかしA、B・・・と多様な解釈を行うことが、現代哲学では有効な方法として認められているということです。

このことで思い出されたことは、2017年、召された小林高徳 東京基督教大学学長が、1999年、まだ講師のとき、聖書解釈学の授業で「山本さんはどう考えますか」と解釈を尋ねられたことでした。学生の私に先生が尋ねられるのか、と当時は思ったことですが、多様な解釈から真理を求めることを授業で行ってくださったのだなあ、と星加氏を通して思い起こしました。

前件肯定式推論「AならばBで、かつAが真であるとき、Bも真である」という考え方について、この論理式がいつでも真(トートロジー)であることを「真理表」で説明してくれたことも役立ちました。もっともこちらは『論理学』という大学教科書に採用されている本の補足解説ということで「Easy study」に分類されていますが。

このように、星加氏は、カント哲学に認められるとされた「現象と物自体の分離」の誤解を説明する方法として現代論理学を用いました。しかし彼は、論理学を使った新しい「数理神学」のようなものを構築しようとしているのではありません。あくまでもプロテスタント教会の分裂のきっかけになったカントの思想の受け止め方の誤解を解くために使用しているだけです。

星加氏は保守派の信仰をよく守っておられます。大胆にいえば、星加氏の論考では、キリスト教は伝統的キリスト教でよく、主流派は保守派から分裂する必要はなかったと語られています。これまでのキリスト教哲学の巨匠たちがしてきたカントの理解を覆すことで、大きな期待が持てます。

星加氏は「信仰論」と「信仰と理性論」の両方で、キリスト教の外にいる方との接点を持ち、聖書物語を聞いてもらって自然発生的に信仰が芽生え、イエス・キリストを信じ、また、イエスに対する確信を得ることで、自分が信じていることへの正しさをさらに確信してもらうことを目指しました。牧師が神学的にも科学的にも安心して信仰を語る「開かれたキリスト教」を提示されたと思います。

私は、星加氏の論考が理論構築のみならず、その理論から伝道の実践方法を語ってくれているのがうれしいです。キリスト教の学問的正しさを土台に、牧師が具体性をもって生き生きと語ることでキリスト教の外にいる方々に安心を与えることができます。

彼らとの接点は、福音書から福音を語ることですが、彼らに信仰が芽生えた後には、ここに述べられている「使徒的信仰」を伝えることを教会の働きとしたいと思います。

最後に、私は星加氏の論考が神学校で取り上げられ、講座や講義がなされることを夢見ています。浅学を顧みずに本論考の推薦をするにあたって、その責任として、何度も論考を読み、理解に努めてきました。ないと思いますが、誤った論理がないか、今後も発見に努めていきたいと思っています。(これまでに、私から数点の細かな修正を要請した部分はありましたが。)

そして私以上の力ある方が応援してくだされば、星加氏もうれしいでしょう。星加氏の願いは、この論考が「人々をキリスト教から遠ざける根本的な要因となってきた神学および哲学上の諸問題に解決を与え」、「教会が人々に確信を持って提示できるものを、まず自分自身において発見あるいは再発見する」ことにあります。