Part 1 The Theory of Faith | Hirohumi Hoshika |
イエスについて知ることができなければ信仰の持ちようがないということ、キリスト教信仰がイエスを知ることに始まるということについては、使徒パウロも現代神学も同じ見解を持っている。
「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。」(ローマ10.14)
「第三の探求と呼ばれるイエス研究に専念するキリスト者の学者たちの間にいくつかのコンセンサスができあがっている…第一に、何をイエスが行い成し遂げたかを知ることは…イエスを信じるために必要である。」
18世紀以降、イエスの実像を知るための多くの研究が行われてきたことは、Chapter 2 - Easy Study 2~3に触れた通りだが、キリスト教信仰がイエスの知識を必要とするものであることは、初代教会以来の一貫した認識である。
しかしこの当たり前に過ぎる考えに対して次を問うてみたい。
「キリスト教信仰にイエスの知識が必要である」というとき、その「必要」とは、キリスト教信仰が我々に「成立するために必要」ということなのか。それとも我々に成立する信仰が「正しいものであるために必要」ということなのか。
上に引用したパウロの言明は前者の意味であるだろう。一世紀のローマ世界、すなわち「キリストの名がまだ知られていない所」(ローマ15.20)において、「キリスト教信仰が成立するために」ともかくイエスの知識が不可欠であったのは当然である。
その当時、イエスの実像についての誤った知識を危惧する必要は現代ほどには生じていなかった。というのも、イエスの弟子、そしてイエスを見たことのある人々がなお生存しており、謬見とおぼしき伝聞についてはこれらの者に直接確認する手だてがあったからである。
当時における課題はイエスの知識の不確かさということではなく、その保存だったのである。
一方、チャールズワースの言明はどうだろうか。
これも基本的にはパウロと同じく、「イエスへの信仰が成立するために」はイエスの知識が必要であって、それを欠いていても成立するような信仰、例えば18世紀におけるカントの道徳信仰、また20世紀の新正統主義神学の一部にみられるイエス不在の信仰などは、初代教会の信仰とは異なることを告げるものである。
ここではキリスト教信仰において「事実依拠性」
しかしながらチャールズワースが史的イエスの研究に携わる学者であるという点を勘案すると、上の言明をそれだけのものとみることは不十分である。
現在、福音書によってイエスの知識がとりあえずは与えられている状況において、なお史実のイエスの知識を必要と考えてそれを探求しているということは、取りも直さず、福音書から得られるイエスの知識が誤っている可能性があり、そのため我々に成立している信仰が誤った情報に基づいている可能性があることが考えられている、ということにほかならない。
つまり、チャールズワースにおける「イエスの必要」ということには、「我々に成立する信仰が正しいものであるために、なお史実のイエスの探求が必要」という意味が含まれているのである。
そこでこれら二つの「必要」の区別を考えることは、「史実と信仰」問題における「過去性」を扱う上での最初の見通しを与えるだろう。
「史的イエスの探求」においては「歴史学的にみて正しいイエスの知識」が探求されてきたことは明らかであるから、それは上の区分に従えば、我々の「信仰が真であるために」必要とされるイエスが探求されてきたということである。
一方で、教会が必要としてきたのは必ずしも学問的に確証されたイエスの知識というものではない。我々が信じるイエス像が間違っていてよいわけではないが、しかし、それが正しいことの証明や学問的な根拠が必要とまでは考えられていない。
教会は現代に至るまでの長い世紀にわたり、史的イエスについての学問なしに信仰を成立させてきたのである。この点から見ると、史的イエス研究が与えようとするイエスは教会にとって過分なイエスといえそうである。
するとここに教会が必要とするイエスと、学問として探求されているイエスに食い違いがあることは確実といってよいだろう。このイエス概念の違いは厳密には何によるものなのか。